もし信長が変を察知して事前に脱出していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
織田信長は当時48歳、天下統一を目前にした最盛期の武将でした。本能寺には供わずか百余名と中国攻めの直前という油断の中で滞在していました。
この場面で何が起きていた?
1582年6月初旬、信長は中国攻めの羽柴秀吉支援のため京都本能寺に滞在していました。同時期、明智光秀は丹波亀山城(かめやまじょう)で1万3千の軍を編成していましたが、本来は中国攻めへの援軍のはずでした。
史実ではこうだった
天正10年(1582年)6月1日夜、京都本能寺。
信長は中国攻めの羽柴秀吉支援のため、本能寺に宿泊していた。供は森蘭丸ら近習と、わずか百余名の手勢のみ。京都という安全圏で、信長は油断していた。
そのころ、明智光秀は丹波亀山城(かめやまじょう)を出陣していた。表向きは中国攻めへの援軍だが、実際は京都を目指していた。光秀は1万3千の軍勢を率いて『敵は本能寺にあり』と命じた(諸説あり)。
6月2日未明、本能寺は明智軍に包囲された。信長は弓と槍で防戦したが、衆寡敵せず、寺に火を放って自害した。享年49。
同時に二条新御所では嫡男・織田信忠が自刃した。これにより織田家の中枢が一挙に失われた。
光秀の動機は怨恨説・野望説・黒幕説など諸説あり、戦国最大の謎とされる。一説には光秀の妙な振る舞いに気づいた者もいたが、進言は届かなかった。本能寺の変により織田政権は瓦解し、その後の天下取りは中国大返しから山崎の戦いを制した羽柴秀吉が引き継ぐこととなった。
もしここが変わったら?
もし信長が光秀の不審な動きを察知して本能寺を離れていたら、変は未遂に終わり、信長の天下統一は完成していたかもしれません。
本能寺、空の伽藍――信長、夜陰に京を離れる
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天正十年六月一日、京都本能寺。織田信長は中国攻めの羽柴秀吉支援に向かうため、京に滞在していた。供は森蘭丸ら近習と、百余名ほどの手勢にすぎない。京は安全圏のはずであった。境内には茶器や書状が運び込まれ、翌日には公家衆を招く支度も整っていた。
だが、その日の信長は落ち着かなかった。丹波亀山の明智光秀から届く支度の報告は、中国出陣の援軍にしては兵の動きが大きすぎる。糧の集め方も、馬の数も、西へ向かう軍にしては不自然であった。愛宕山での連歌の話も耳に入っていた。決定打ではない。だが、いくつもの小さな違和感が、信長の中で一つの形を取り始めていた。
夕刻、信長は森蘭丸を呼び、亀山方面へ物見を放たせた。夜半、戻った物見は息を切らして告げた。明智勢は中国道へ向かっていない。京へ向かう道筋に軍勢が動いている。兵は一万を超えるという。灯火を抑えた行軍であった。
信長の判断は早かった。本能寺を引き払う。二条新御所の信忠にも急使を出す。京の中で明智勢を待つ理由はない。寺は城ではなく、土塀と門だけで一万を防ぐことはできない。二条も大軍を受け止めるには心細い。生きて近江へ戻り、安土で軍勢を集める。それが最も早い反撃であった。
丑の刻、信長は数十騎の馬廻衆とともに本能寺の裏門を出た。松明は最小限に抑え、鴨川の浅瀬を渡る。冷えた水が馬の脚に絡んだ。信忠も二条新御所を密かに離れ、別路から近江を目指した。森蘭丸は供の列を整え、京の町に余計な声が立たぬよう、馬の口を抑えさせた。眠る町家の戸の隙間に、わずかな灯がいくつか見えるだけであった。
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明け方、明智軍一万三千は本能寺を囲んだ。鬨の声が上がり、門が破られる。だが、寺内は静まり返っていた。近習の姿も、信長の姿もない。茶器だけが据えられたまま残されていた。続いて二条新御所へ向かった兵も、そこが空であることを知った。
光秀は馬上で長く動かなかった。謀反は、信長を討つことで初めて形を持つ。信長が生き、信忠も逃れているなら、京を押さえても正統性は生まれない。光秀は坂本と山崎の線を固めようとしたが、細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)も筒井順慶(つつい・じゅんけい)も動かなかった。
その日のうちに、信長は安土へ入った。信忠も近江で合流した。安土から早馬が走り、北陸の柴田勝家、中国筋の羽柴秀吉、三河の徳川家康、関東の滝川一益へ、光秀討伐の下知が飛んだ。信長と信忠がともに健在であることは、織田家中を一気に引き戻した。各地の城では旗が改められ、兵が街道へ繰り出した。
六月十日前後、近江・美濃の兵が安土へ集まり始めた。光秀は山崎で防戦を試みたが、味方は増えない。京の町には信長健在の触れが出され、明智方に付いた者の名は寺社と町年寄に書き出させた。光秀は勝竜寺(しょうりゅうじ)を支えきれず、坂本へ退く途中で討たれた。
六月下旬、信長は安土で評定を開いた。信忠には京と近江の警固を預け、秀吉には中国筋の仕置き継続を命じ、勝家には北陸を固めさせた。丹波亀山と坂本には織田方の番が置かれ、京へ通じる街道には新たな関が設けられた。信長は本能寺で死ななかった。だが、家臣が一万を超す兵を率いて主君を討とうとした事実は残った。安土の広間で、信長は明智旧臣の名簿を前に置き、次に問うべきは光秀の首だけではなく、織田の家中をどう締め直すかであると知っていた。
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史実との差分
史実では信長は本能寺で明智軍に包囲され、自害した。同時に二条新御所の信忠も自刃し、織田政権は急速に瓦解した。この if では信長が光秀の不審な動きを察知して本能寺を離れ、信忠も京を脱出する。明智軍の襲撃は空振りとなり、信長は安土で諸将を集めて光秀を討伐し、織田政権を維持する。
読者ノート
この分岐では、信長が生き残るだけでなく、信忠も生存するため、織田政権の中枢は大きく保たれる。一方で、光秀の謀反が未遂に終わっても、家臣統制の問題は残る。次の局面は、天下統一の続行だけでなく、安土を中心とした家中再編と京・近江の警固強化へ移っている。