もし脇坂ら四将が寝返らず、吉継が小早川を支え切っていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

大谷吉継(おおたに・よしつぐ)は、戦況を読む知略に優れた武将でした。関ヶ原では、味方の中に裏切りの気配を察し、あらかじめ手を打っていました。

この場面で何が起きていた?

関ヶ原で、松尾山の小早川秀秋が西軍を裏切り、吉継隊へ攻めかかります。吉継はこれを予見して備えており、寝返った小早川勢を一度は押し返しました。

史実ではこうだった

慶長五年九月十五日、関ヶ原。 大谷吉継(おおたに・よしつぐ)は、松尾山の小早川秀秋に不穏なものを感じ取っていた。裏切るかもしれぬ――そう読んで、吉継は小早川勢に備える布陣を敷いていた。 果たして、小早川は西軍を裏切り、山を駆け下りて吉継隊に襲いかかった。だが吉継は慌てなかった。鉄砲と槍で受け止め、寝返った大軍を一度は押し返したのである。病躯を輿に乗せたままの、見事な采配であった。 勝負を分けたのは、その側面だった。吉継が頼みとしていた脇坂安治(わきさか・やすはる)・朽木元綱(くつき・もとつな)・小川祐忠(おがわ・すけただ)・赤座直保(あかざ・なおやす)の四将が、小早川に続いて寝返ったのである。 前から小早川、横から四将。前後を断たれた吉継隊は、たちまち崩れ落ちた。吉継はもはやこれまでと覚悟し、自刃して果てた。 裏切りを読み切りながら、なお裏切りに沈む――関ヶ原の勝敗は、この四将の動き一つに懸かっていた。

もしここが変わったら?

もし脇坂安治(わきさか・やすはる)ら四将が寝返らず、吉継とともに小早川勢を支え切っていたら、吉継は裏切りを抑え込み、西軍は総崩れを免れて関ヶ原はもつれていたかもしれません。

俯瞰視点

四将が踏みとどまった日――関ヶ原は半日では決まらなかった

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慶長五年九月十五日、関ヶ原は朝霧に沈んでいた。 大谷吉継(おおたに・よしつぐ)は輿の上にあった。病は重く、目はもう霧の白と兵のざわめきとを区別しない。それでも吉継の耳は、松尾山に集う小早川秀秋の一万五千が、開戦の刻を過ぎてもなお動かぬことを聞き取っていた。動かぬのは迷っている証だ――吉継はそう読み、家臣に命じて鉄砲隊の向きを山の裾へ据え直させた。「秀秋殿は、いずれ下りてくる。前ではなく、横を固めよ」。乱れのない声であった。前方の宇喜多勢へ気を取られるな、と吉継は重ねて命じた。脇坂安治(わきさか・やすはる)・朽木元綱(くつき・もとつな)・小川祐忠(おがわ・すけただ)・赤座直保(あかざ・なおやす)の四将には、松尾山の動きを離れず見張るよう、早馬で念を押させた。 正午前、松尾山が崩れるように動いた。小早川勢が一斉に山を駆け下り、吉継隊の側面へ殺到する。寝返りであった。だが吉継は慌てない。あらかじめ向きを変えていた鉄砲が、坂を下る小早川勢へ斉射を浴びせる。硝煙が霧に混じり、寄せ手の先頭が崩れて転がり落ちた。間を置かず槍衾(やりぶすま)が二の波を受け止め、吉継隊は寝返った大軍を一度は押し戻したのである。病躯を輿に据えたままの、見事な采配であった。坂の勢いに乗ったはずの小早川勢は、その勢いをそのまま死地に変えられ、前進と後退の境で揉み合うほかなかった。 勝負を分けるのは、その先だった。家康の調略は、すでに四将の背にも忍び寄っていた。ここで吉継の側面を固める脇坂・朽木・小川・赤座の四将までが小早川に続いて寝返れば、前後を断たれた吉継隊は崩れ、吉継は自刃に追い込まれる。調略は、迷う者の背を押すだけで足りるはずであった。
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しかしこの戦場では、四将は動かなかった。脇坂安治は馬上で松尾山を見上げ、調略の使者が言い残した約束と、いま目の前で小早川に押される吉継隊の旗とを、しばし秤にかけた。長く息を吐いてから、脇坂は槍の穂先を小早川勢へ向け直す。「武士の名は、一日では取り戻せぬ」。朽木、小川、赤座の旗も、東へは流れぬ。四将の手勢が吉継隊の横腹に並び、寝返った小早川勢の側面を逆に衝いたのである。前から吉継、横から四将――挟まれたのは、小早川のほうであった。 秀秋の一万五千は伸びきった陣形を立て直せぬまま、松尾山の中腹へ押し返されていく。寝返りが寝返りを呼ぶはずだった連鎖は、ここで断ち切られた。西軍右翼は崩れず、戦線は支えられた。総崩れになるはずの半日が過ぎても、関ヶ原はまだ決していなかった。 右翼が持ちこたえたことで、笹尾山(ささおやま)の石田三成隊にも、宇喜多勢にも、立て直しの間が生まれた。一方の徳川勢は、当てにしていた小早川の崩しが効かず、決め手を欠いたまま陽が傾く。半日で片がつくはずの戦は、その日のうちには終わらなかった。数日のうちに決していたはずの天下の趨勢は、ここから幾日も、あるいは幾月ももつれ込む方向へと舵を切ったのである。 夕刻、戦場には決着のつかぬ重い均衡が残った。徳川家康は本陣を退げず、笹尾山には石田三成の旗が立ち続けている。小早川の裏切りは、致命の一撃にはならなかったのだ。吉継は輿の上で、見えぬ目を松尾山のほうへ向けたまま、ひとことだけ漏らした。「まだ、終わってはおらぬ」。その先に何が待つのか、いまはまだ、誰の目にも見えてはいなかった。
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史実との差分

史実では脇坂安治(わきさか・やすはる)ら四将が小早川秀秋に続いて寝返り、前後を断たれた大谷吉継(おおたに・よしつぐ)隊は壊滅し、吉継は自刃した。この物語では四将が踏みとどまって小早川勢の側面を衝き、吉継が小早川の裏切りを抑え込む。結果、西軍右翼は崩れず、関ヶ原は半日では決着せずにもつれ込んでいく。

読者ノート

関ヶ原の勝敗は、四将という限られた人々の選択に大きく懸かっていました。吉継は裏切りを読み切り、一度は小早川を押し返したと伝わります。最後の砦が崩れなかったとき、天下分け目の一日はどう変わったのか――その余白を想像してみてください。