もし吉継が病に侵されず、万全の体で采配していたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

大谷吉継(おおたに・よしつぐ)は「百万の兵を指揮させてみたい」と評されたほどの戦巧者でした。しかし関ヶ原のころには重い病に侵され、その才を十分に振るえる体ではありませんでした。

この場面で何が起きていた?

関ヶ原で、吉継は病のため視力をほとんど失い、輿に乗ったまま采配を執りました。それでも小早川の裏切りを読んで奮戦しましたが、自ら戦場を駆けることはできませんでした。

史実ではこうだった

慶長五年九月十五日、関ヶ原。 大谷吉継(おおたに・よしつぐ)は、輿の上にいた。重い病が進み、その目はほとんど光を失っていた。馬に乗ることも、自ら戦場を駆けることもかなわない。 それでも吉継の頭脳は冴えていた。松尾山の小早川秀秋の裏切りを読み切り、備えを固め、寝返った小早川勢を一度は押し返した。輿の上から下す采配は、なお見事であった。 だが、見えぬ目は、戦場の全体を掴むには限りがあった。脇坂安治(わきさか・やすはる)ら四将が寝返り、隊の側面が崩れたとき、吉継はもはや自ら馬を駆って立て直すことはできなかった。前後を断たれた隊は崩壊し、吉継は自刃した。 もしこの身が健やかであったなら――。西軍の将たちは、吉継の采配がもっと広く戦場に及んでいればと惜しんだ。病に蝕まれてなお冴えた知略は、その肉体の衰えゆえに、関ヶ原のすべてを動かすには至らなかった。

もしここが変わったら?

もし吉継が病に侵されず、万全の体で馬を駆って西軍全体の指揮を執れていたら、ばらばらの諸隊はまとまり、小早川の裏切りにもより機敏に対応できていたかもしれません。

俯瞰視点

もし大谷吉継(おおたに・よしつぐ)が病を免れ、万全の体で関ヶ原を駆けていたら

上部広告
慶長五年九月十五日、関ヶ原。明け方の濃い霧が晴れぬうちから、銃声が谷を震わせた。 この戦場に、大谷吉継(おおたに・よしつぐ)は輿ではなく馬の上にいた。重い病に侵されることなく、視力も体力も衰えのないまま、吉継は鎧をまとって自ら馬首を巡らせていた。秀吉に「百万の兵を指揮させてみたい」と評された男が、ようやくその才を全身で振るえる体でここに立っていた。 西軍は数こそ多いが、指揮系統はばらばらであった。石田三成は笹尾山(ささおやま)に陣取り、宇喜多、小西らがそれぞれの判断で動いている。吉継はそれを見て取ると、自ら諸隊の間を馬で駆け、伝令を待たずに次々と下知を飛ばした。火縄銃の斉射の間合いを計らせ、槍隊の押し引きを揃えさせる。乱れがちだった西軍の動きが、吉継の采配を軸に少しずつ噛み合い始めた。馬上から戦場の起伏を一望できることの利は大きかった。どの隊が押され、どこに穴が開きかけているのか、吉継は自らの目で見て取り、手当てが間に合った。輿に縛られていれば届かぬ機微であった。 吉継の目は、絶えず松尾山に注がれていた。小早川秀秋。一万五千を擁しながら、どちらにつくか定まらぬ若い大将。家康の調略が秀秋に及んでいることを、吉継は早くから読み切っていた。だからこそ、自隊を松尾山の麓に置き、いつ裏切られても押し返せるよう備えを厚くしていた。 正午近く、ついに松尾山が動いた。小早川勢が雪崩を打って斜面を下り、吉継隊の側面へ襲いかかる。だが、健全な吉継の対応は速かった。彼は輿に縛られてはいない。馬を返して崩れかけた側面へ自ら駆けつけ、声を張り、銃隊を向き直らせて小早川勢の出鼻に鉛玉を浴びせた。一度は押し込まれた備えが、吉継の姿を認めた将兵の踏ん張りで持ち直す。
記事中広告
ここで脇坂安治(わきさか・やすはる)ら四将の寝返りが吉継隊の背を断てば、隊は一気に崩壊しかねなかった。だが、戦場全体を自らの目で掴んでいる吉継は、四将の旗の揺らぎをいち早く察し、後備えを割いて背後へ回した。崩壊の連鎖は、起こらなかった。挟撃は決定打にならず、吉継隊は包囲の中でなお陣形を保ち続けた。 半日で決着するはずだった関ヶ原は、終わらなかった。日が傾いても銃声は止まず、西軍は誰の予想をも超える粘りを見せていた。家康の本陣からは、桃配山(ももくばりやま)を下りて督戦する将の姿が幾度も繰り返された。吉継が一隊崩れれば自ら馬で駆けつけ、押されれば押し返す。その一点が、西軍全体の腰を支えていた。三成も、笹尾山から麓を駆ける友の旗を頼みに、なおも兵を励まし続けた。宇喜多勢も小西勢も、中央の吉継隊が崩れぬ限りはと踏みとどまり、それぞれの戦線を保った。半日決着を前提に立てられた家康の絵図は、刻一刻と崩れていった。 夕刻、霧に代わって硝煙が関ヶ原を覆った。勝敗はなお定まらない。小早川秀秋は松尾山と平地の間で進退を決めかね、脇坂らも旗幟を鮮明にできぬまま戦場の端で立ち尽くしていた。誰の采配が天下を分けるのか、その日のうちには見えてこなかった。 ただ一つ確かだったのは、笹尾山の三成が、麓を駆け回る友の旗を見て、まだ戦えると信じていたことであった。病に伏すはずの男が、馬上で采配を振るっている。その姿が、ばらばらだった西軍を一本の戦線へとつなぎ留めていた。関ヶ原の勝敗は、この日、いまだ霧の向こうに置かれたままであった。
下部広告

史実との差分

史実では吉継は病で視力を失い、輿の上から采配した。小早川秀秋の裏切りに続き脇坂安治(わきさか・やすはる)ら四将も寝返って吉継隊は壊滅し、関ヶ原は半日で決着した。この if では吉継が健全な体で自ら馬を駆り、西軍の指揮系統をまとめ、小早川の急襲と四将の動きに機敏に対応する。挟撃は決定打にならず、関ヶ原は半日では決着せず大きくもつれる。

読者ノート

この分岐の焦点は、吉継が健康なら西軍が必ず勝った、という話ではない。健全な体は、ばらばらの西軍を一本の戦線につなぎ留め、半日決着を覆すだけの粘りを生む。次の局面は、長引いた戦の中で小早川秀秋と脇坂安治(わきさか・やすはる)らがどちらに旗を定めるか、そして家康がその膠着をどう崩そうとするかへ移る。