もし昌幸が沼田を引き渡し、徳川に従い続けていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
真田昌幸は、自力で切り取った沼田(ぬまた)領に強い愛着を持っていました。大勢力に従いつつも、自家の利を手放さない狡知が、彼の生き方でした。
この場面で何が起きていた?
1585年、徳川家康は北条との和睦の条件として、真田に沼田(ぬまた)領を北条へ引き渡すよう命じます。沼田は真田が自ら戦って得た土地であり、昌幸には到底のめない要求でした。
史実ではこうだった
天正十三年、上田。
徳川家康から、真田昌幸に難題が突きつけられた。北条との和睦のため、沼田(ぬまた)領を北条へ引き渡せ、というのである。
沼田は、真田が自らの手で切り取った土地であった。主家の都合で他家へ譲れと言われて、はいと従えるものではない。だが拒めば、徳川の大軍が上田へ押し寄せる。
昌幸は、拒否を選んだ。徳川を離れ、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)を頼って人質を送り、戦の構えを取る。そして約七千の徳川勢を、二千の寡兵で上田城に迎え撃ち、これを撃退した。
沼田を守り、徳川にも屈しない――昌幸は危うい綱渡りで、自家の独立と所領を守り抜いた。その変わり身と知略は「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評され、戦国の小領主が大勢力の間で生き残る術を、鮮やかに示したのである。
もしここが変わったら?
もし昌幸が沼田(ぬまた)を素直に引き渡し、徳川に従い続けていたら、上田合戦は起こらず、真田は波風のない代わりに、徳川の一家臣として独立を失う道を歩んでいたかもしれません。
沼田(ぬまた)を譲りし日――昌幸、徳川に膝を屈して真田の家を保つ秋
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天正十三年の夏、上田の館に徳川家康の使者が着いた。北条との和睦が成る、ついては沼田(ぬまた)領を北条へ引き渡せ――それが主家の命であった。
昌幸は使者を上座に迎え、しばし黙していた。沼田は、武田の世が崩れたのち、自らの兵と謀によって切り取った土地である。誰に与えられたものでもない。北条と何度も槍を合わせ、地侍を一人また一人と手なずけ、城を取り、田を検め、ようやく根を張らせた地であった。それを、主家の都合で他家へ渡せという。だが、口を開いたとき、昌幸の声に波はなかった。承知つかまつった、沼田は引き渡しましょうぞ――そう言い切った。
使者が去ったのち、長男の信幸が膝を進めて問うた。父上、あれは我らが手で得た地にござりまする、と。昌幸は庭の方へ目をやったまま答えた。得た地は、また失う。だが家を失えば、得る手すらなくなる。今は手を引く時よ、と。次男の信繁は何も言わず、ただ父の横顔を見つめていた。拒めば徳川の大軍が上田へ押し寄せる。上杉を頼り、城に拠って戦う道もある。その算盤を、昌幸が弾かなかったはずはない。それでも昌幸は退くと決めたのである。
重臣の中には、なぜ戦わぬのかと血気にはやる者もあった。沼田は真田の魂のごとき地、それを戦わずに渡しては末代までの恥と、声を荒げる者もいた。昌幸はそれらを静かに制した。恥を惜しんで家を失うは、武門の本意にあらず。今日の恥は、明日の家あってこそ雪げる。家がなくば、雪ぐ者すら残らぬ――そう諭す昌幸の声に、座はやがて鎮まった。誰もが内心で苦さを噛みしめ、そして主の判断に従った。
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沼田城の在地の侍たちには、退去を命じる書状が回された。先年まで真田の旗のもとに北条勢と斬り結んだ者たちである。納得のいかぬ顔で去る者もあれば、田畑を捨てきれず北条に降る者もあった。昌幸はその一人一人の名を、胸の内で数えていた。やがて沼田には北条の旗が立った。昌幸はそれを遠く上田から聞き、何も言わなかった。徳川との約定はこうして守られ、上田へ大軍が押し寄せることはなかった。戦は、起こらなかったのである。
それから数年、真田は徳川の一家臣として静かに存続した。家康が小田原を攻め、関東へ移ったのちも、昌幸は信濃の小さな所領を安堵され、波風なく日を送った。上田城は築かれはしたが、ついに大軍を相手に堅城の名を轟かすことはなかった。かつて大勢力の間を渡り歩き、独立を保った真田の身軽さは、もはやどこにもなかった。昌幸の知略は、披露する場を失ったまま、年とともに鈍っていった。徳川の差配のうちに収まった小領主に、謀を巡らせる余地はなかったのである。
後年、世の人が戦国の知将を語るとき、昌幸の名はさほど高く挙がらなかった。沼田をめぐって徳川に楯突き、寡兵で大軍を退けた「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」――その武名は、ついに生まれなかったからである。彼は大勢力に従う律儀な小領主の一人として、静かに歴史の中へ沈んでいった。
ただ、館の縁に座る老いた昌幸の胸の内を、誰も知らなかった。沼田の風の冷たさを、あの土地を駆けた日々を、まだ覚えているのかどうか。家は残り、家臣は一人も死ななかった。それで十分なはずであった。それを問う者は、もはやいなかった。
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史実との差分
史実では昌幸は沼田(ぬまた)の引き渡しを拒んで徳川から離反し、第一次上田合戦で寡兵により徳川の大軍を撃退した。このifでは命に従って沼田を北条へ引き渡し、徳川への従属を続けたため、上田合戦そのものが起こらない。結果として「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」の武名も、上田城の堅城としての名声も生まれず、真田は信濃の小領主として従属的に存続した。
読者ノート
自力で得た土地を主家の都合で手放すことの重さが、この物語の核にあります。安全な従属を選んだ昌幸は家を保ちましたが、独立性と知将としての名は失われました。何を守り、何を諦めるか――その天秤の置き方を考えさせる一編です。