もし徳川の大軍が上田城を攻め落としていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

真田昌幸は、大勢力の間を渡り歩いて小領を守り抜いた知将で、「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と称されました。上田城を舞台にした戦いは、その武名を決定づけました。

この場面で何が起きていた?

1585年、沼田(ぬまた)領の引き渡しを拒んで徳川から離反した昌幸に対し、家康は約7000の大軍を上田へ差し向けます。昌幸の手勢はわずか2000ほどでした。

史実ではこうだった

天正十三年、信濃・上田。 徳川家康は、沼田(ぬまた)を北条へ渡せという命に背いた真田昌幸を討つべく、約七千の大軍を上田へ送った。対する昌幸の手勢は二千ほど。誰が見ても、勝負は明らかに思えた。 だが昌幸は、地の利を知り尽くしていた。徳川勢を城下深くまで誘い込み、頃合いを見て伏兵を放ち、鉄砲を浴びせた。狭い町なかで身動きの取れぬ大軍は、同士討ちと混乱に陥った。神川(かんがわ)のほとりまで追われた徳川勢は、おびただしい死傷者を出して退いた。 寡兵が大軍を破った。この勝利で「上田城は容易に落ちぬ」という評判が立ち、昌幸の知略は天下に知られた。 沼田をめぐる徳川との対立は、後に秀吉の裁定で一応収まる。だが、真田が徳川に屈しなかったこの一戦は、十五年後の第二次上田合戦の前史となった。

もしここが変わったら?

もし徳川の大軍が上田城を攻め落とし、昌幸が敗れていたら、真田の独立も知将の名声も失われ、後の第二次上田合戦も大坂の幸村も生まれなかったかもしれません。

俯瞰視点

上田、落つ――寡兵では支えきれなかった一日

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天正十三年八月、信濃上田。徳川家康の差し向けた七千の軍が、神川(かんがわ)を渡って上田の城下に迫った。沼田(ぬまた)を北条へ渡せという命に背いた真田昌幸を討つための大軍である。対する昌幸の手勢は二千に満たぬ。誰の目にも兵力の差は歴然としていたが、城に拠る昌幸は怯まなかった。これまでと同じく敵を町なかへ深く誘い込み、入り組んだ小路で身動きを封じ、伏兵と鉄砲で叩く構えである。地の利を知り尽くした者の戦であった。 初めのうちは、その目論見が見事に功を奏した。狭い小路に踏み込んだ徳川勢へ、屋根のかげから一斉に火縄銃が火を噴いた。硝煙が立ちこめるなか、槍を構えた伏兵が横合いから突き込み、先手の足軽は浮き足立って後ろの味方を押し返した。同士討ちと混乱が起こり、神川のほとりには徳川方の死骸が点々と転がった。城兵のあいだに、勝てるという気配さえ走った。 だが、今度の徳川勢は前へ出すぎなかった。崩れた手勢をいったん退き鉦で引かせ、町に火を放ちながら、ただ数の重みで堀際まで力押しに押してくる。焼けて煙る路地からは伏兵の隠れ場が奪われ、横槍を入れる隙が一つずつ消えていった。昌幸の鉄砲は弾込めの間を突かれ、連ねて撃つことができぬ。数の差は、刻が経つほど重く城方にのしかかった。知略の妙手は、辛抱強い力攻めの前に、少しずつ削り取られていった。 日が傾くにつれ、城方の備えは一つずつ崩れていった。橋を落とし、堀を盾に押し返そうとしても、徳川勢は焼けた家の材を投げ込んで足場を作り、なおも寄せてくる。鉄砲は弾が尽き、伏兵の組は半ばが討たれ、生き残った者も傷を負っていた。昌幸はなおも采を振り、わずかな手勢を要所へ回したが、穴を塞げば別の穴が開き、数で押される城は次第に縮んでいった。
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夕暮れ、二の丸の柵が破られた。昌幸は本丸へ退いて最後の備えを固めたが、矢も玉も尽きかけている。城兵は減り、援けに来るはずの上杉勢は神川の向こうで足を止めたまま動かぬ。昌幸は床几(しょうぎ)に腰を下ろし、燃える城下を黙して見つめた。知略を尽くしてなお、二千で七千を支えきるには、地の利だけでは足りなかったのである。長年、大勢力の間を渡り歩いて命脈を保ってきた手も、ここでは届かなかった。 夜半、本丸に火がかかった。昌幸が討たれたのか、縄を打たれたのか、その最期を見届けた者は少ない。確かなのは、明け方には上田の城に徳川の旗が立っていたことだけである。 数か月の後、沼田と上田の所領は、徳川と北条の談合によって割かれた。真田の名はその処分のなかに沈み、大勢力の間を渡り歩いて独立を保ってきた小領主の家は、史料の隅へと静かに退いた。寡兵で大軍を破ったという武名も、難攻不落の上田城という評判も、ついに生まれることはなかった。 人々は後に、上田に城を築いたしたたかな者がいたことを、わずかに語り継いだ。だがそれは、天下に響く知将の名としてではなく、徳川に呑まれて消えた信濃の一豪族の名としてであった。十五年後にこの城で再び戦が起こることも、その子の幸村が大坂で名を残すことも、もはやどこにも書かれてはいない。
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史実との差分

史実では昌幸が約二千の寡兵で徳川七千を上田城から撃退し、知将としての武名と上田城の堅城ぶりを天下に知らしめた。この物語では城が落ち、昌幸が敗れて真田の独立が失われる。沼田(ぬまた)・上田の所領は徳川と北条の処分に委ねられ、第二次上田合戦も幸村の大坂での活躍も生まれない歴史へ向かう。

読者ノート

第一次上田合戦の勝利は、兵力差を地の利と知略で覆した稀有な一戦でした。もしこの一日を支えきれなければ、真田家は信濃の一豪族として埋もれ、後世に語られる「真田」像そのものが存在しなかったかもしれません。歴史が一人の知将の一日にどれほど依存していたかを考えさせる分岐です。