もし徳川方が和睦せず、真田丸へ総攻撃を続けていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
真田幸村(信繁)が築いた真田丸は、攻め寄せる徳川勢に大損害を与えました。家康はこの出城(でじろ)の堅さに、力攻めの限界を悟ります。
この場面で何が起きていた?
1614年の冬の陣で、徳川勢は真田丸へ突撃を繰り返し、弓と鉄砲の前に多くの将兵を失いました。家康は力攻めをやめ、和睦と調略へ方針を切り替えます。
史実ではこうだった
慶長十九年の冬、徳川勢は大坂城の南面に取り付いた。
そこには幸村の築いた出城(でじろ)・真田丸があった。攻め寄せる前田・井伊・松平らの兵に、真田丸からは弓矢と鉄砲が雨のように浴びせられる。徳川勢は柵に阻まれ、堀に落ち、おびただしい死傷者を出した。
家康は力攻めの不利を悟った。これ以上、堅い出城に兵をすり潰すのは愚策である。家康は攻撃をやめ、和睦と調略へと方針を転じた。大砲で城を威嚇し、淀殿(よどどの)の不安を誘って講和へ持ち込む――それが家康の選んだ道であった。
和睦が成ると、講和の条件として堀の埋め立てが進められ、大坂城は防御力を失っていく。
力攻めをやめた家康の判断は、結果として豊臣方から堅城という頼みを奪う布石となった。
もしここが変わったら?
もし家康が和睦に逃げず、損害を覚悟で真田丸への総攻撃を続けていたら、冬の陣は凄惨な総力戦となり、徳川も豊臣も大きな代償を払っていたかもしれません。
和睦を捨てた家康、損害を顧みず真田丸に兵をすり潰した総力戦の冬
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慶長十九年の冬、徳川の大軍は大坂城の南面に取り付いた。城の南に半円を描いて張り出す出城(でじろ)・真田丸では、幸村が弓と鉄砲を構えて寄せ手を待ち受けていた。攻め寄せる前田・井伊・松平の諸勢に、塁の狭間からは矢弾が雨のように浴びせられる。寄せ手は柵に阻まれ、堀際で次々と倒れ、わずか一日のうちにおびただしい死傷者を出した。塁の半円は攻め手の側面をも射すくめ、突き進むほどに左右から弾が浴びせられる仕掛けになっていた。
陣に戻った家康のもとへ、力攻めの不利を説く声が相次いだ。堅い出城に兵をすり潰すのは愚策である、和睦と調略へ転じ、大砲で城を威し、淀殿(よどどの)の不安を誘って堀を埋めさせるのが上策だと、諸将は口を揃えた。諸将は、ここで攻撃をやめ和議へ転じるよう強く勧めた。だがこの冬、家康は首を横に振った。一度兵を退けば豊臣方の士気はいよいよ高ぶり、東西の浪人がさらに大坂へ流れ込む。秀頼の名のもとに新手が集えば、城はいよいよ手強くなる。城が堅いうちに、損害を承知で南面を押し潰すほかないと、老いた家康は腹を据えた。
総攻撃は翌朝から繰り返された。徳川方は寄せ手を入れ替えながら真田丸へ押し寄せ、塁にしがみつき、堀を埋めて詰め寄ろうとした。だが幸村は鉄砲足軽を狭間に並べ、弾込めの番を絶やさぬよう手配りし、寄せ手が塁へ取りつくたびに矢弾を浴びせかけた。一隊が矢を放つあいだに次の一隊が弾を込め、塁からの射撃は途切れることがない。堀を埋めにかかる人足は塁上からの鉄砲に狙い撃たれ、埋め土はみるみる屍で覆われた。井伊・松平の備えは幾度突撃しても半円の塁に阻まれ、前進のたびに将を失っていった。
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日を追うごとに、真田丸の前の堀は寄せ手の屍で埋まり、徳川方の損害は冬のはじめの比ではなくなった。家康が望んだ短期の決着は、堅城の前にみるみる遠のく。城内では、真田丸の確かな戦果が将兵に伝えられ、士気はいよいよ高まった。秀頼は本丸にあって動かず、淀殿もまた城にとどまった。豊臣恩顧の将や諸国の浪人は、真田丸が大軍を退け続ける様を見て、なお城に踏みとどまる気を強くした。一方で、長対陣のために城内の兵糧は日ごとに費え、増え続ける浪人衆を養う米にも限りが見え始める。高ぶる士気の裏で、人心の消耗もまた、静かに進んでいった。
家康は陣中で長対陣の重さを計った。力攻めを続けるかぎり徳川の兵も人も減りつづけ、東国から遠く従えた諸大名の不満もくすぶり始める。梅雨を控え、長陣で陣に病の広がることも家康は恐れた。それでも、いまさら兵を退けば、流した血のすべてが無駄になる。和睦に転じる道はもはや自らの手で閉ざしてしまった。堀を埋めさせる調略の道も、力攻めを続けるかぎり開かれない。
冬が深まっても、大坂城は幾重もの堀を保ったまま、南に真田丸を従えて立ちつづけた。徳川方は多大な犠牲を払い、それでも城を抜けず、戦は長き囲みへと変わっていく。家康にも、この総力戦の果てに何が待つかは、まだ見えてはいなかった。堀が水をたたえ、真田丸が南に立つかぎり、戦の帰趨は誰の手にも定まらぬまま、大坂の冬は長い消耗戦の日々へと移っていった。
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史実との差分
史実では家康が真田丸での損害を見て力攻めを諦め、和睦に転じて講和の条件として大坂城の堀を埋め立てさせた。この物語では家康が和睦を選ばず力攻めを続行したため、徳川方は真田丸でさらに甚大な損害を被る。堀を埋める調略の道も閉ざされ、大坂城は堀を保ったまま持久し、戦は総力戦・長期戦と化していった。
読者ノート
冬の陣で家康が和睦に転じたのは、真田丸での損害から力攻めの限界を悟ったためでした。もし損害を顧みず攻め続けていれば、徳川方の犠牲はさらに大きく、堀を埋める策も使えなかったでしょう。最終的な勝敗は分かりませんが、戦が長引けば豊臣方に交渉の余地が生まれた可能性はあります。