もし講和で外堀が埋められず、大坂城が堅城のままだったら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

真田幸村(信繁)は大坂冬の陣で、城の弱点を補う出城(でじろ)『真田丸』を築き、徳川の大軍を撃退しました。大坂城の堅固さは、豊臣方にとって最大の頼みでした。

この場面で何が起きていた?

冬の陣で力攻めの不利を悟った徳川方は和睦に転じます。しかし講和の条件として外堀が埋め立てられ、真田丸も取り壊され、難攻不落の大坂城は『裸城』同然になりました。

史実ではこうだった

慶長十九年の冬、大坂城は徳川の大軍に囲まれた。 幸村は城の南に出城(でじろ)・真田丸を築き、攻め寄せる徳川勢を弓と鉄砲で散々に打ち破った。力攻めの不利を悟った家康は、和睦へと舵を切る。 だが、講和は徳川方の謀略をはらんでいた。和睦の条件として、まず外堀を、続いて内堀までも埋め立てる作業が押し進められた。真田丸も取り壊された。難攻不落を誇った大坂城は、見る間に裸城同然となっていった。 幸村たちは堀の埋め立てに抗ったが、流れは止められなかった。城の守りという最大の頼みを失ったまま、豊臣方は翌年の夏を迎える。 堀のない城で、幸村は野へ討って出るほかなくなる。冬の講和は、夏の悲劇の伏線であった。

もしここが変わったら?

もし徳川方の堀埋めを阻み、真田丸と堀を残したまま夏の陣を迎えていたら、豊臣方は堅城に拠って戦え、幸村も無謀な突撃に頼らずに済んだかもしれません。

俯瞰視点

埋められなかった外堀、堅城のままで迎えた大坂の長い夏

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慶長十九年の冬、大坂城は徳川の大軍に囲まれた。城の南に築かれた出城(でじろ)・真田丸では、幸村が弓と鉄砲で前田・井伊・松平の諸勢を引きつけ、寄せ手に大きな損害を与えた。半円に張り出した塁から放たれる矢弾の前に、徳川勢は堀際で次々と倒れ、力攻めの不利を悟った家康はついに和睦へと舵を切る。 講和の使者が城と陣のあいだをしきりに行き交った。徳川方は和睦の条件として、まず外堀の埋め立てを求めてきた。幸村は本丸の評定の場で、その一条にこそ深い謀があると説いた。堀を失えば大坂城は裸城となり、来る夏には城を出て野で戦うほかなくなる、と。淀殿(よどどの)のもとへ参じた重臣たちは初め埋め立てやむなしと傾いていたが、幸村の言葉と、真田丸が冬に見せた確かな手応えとが、評定の流れをかろうじて押しとどめた。 豊臣方は改めて使者を立て、外堀の普請には豊臣の人足のみを当て、徳川方の手出しは認めぬと申し入れた。徳川方はなおも内堀までも埋めにかかろうとしたが、城方の番衆が堀際を固め、夜ごとに埋め土を浚い返した。約定にない埋め立ては押し進められぬまま、冬が過ぎていった。真田丸も取り壊されることなく、南面の備えとして残された。 年が改まり、慶長二十年の夏が来た。家康と秀忠は再び大軍を催し、大坂へと向かう。だが城を望んだ徳川方の物見は、外堀も内堀も水をたたえ、真田丸が依然として南に張り出している様を見て取って息を呑んだ。堀を失えば、豊臣方は城を出て野で戦うほかなくなる。だがこの年、その必要は生じず、幸村は野へ討って出る必要に迫られなかった。
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秀頼は本丸にあって動かず、淀殿もまた城にとどまった。幸村は諸将と図り、真田丸と外堀の線に兵を手厚く配し、寄せ手を堀際で食い止める構えを取った。鉄砲足軽を塁の狭間に並べ、弾込めの番を絶やさぬよう手配りも怠らなかった。徳川方は冬と同じく大砲を引き出して城を威嚇し、本丸の天守へ向けて幾度も玉を放った。轟音とともに玉が屋根をかすめ、淀殿のまわりは騒然となったが、堀と石垣に守られた城は、冬の対陣のときと同じく容易には崩れなかった。 寄せ手は堀を埋めながら詰め寄ろうとしたが、真田丸からの鉄砲が普請の人足を狙い撃ち、作業は遅々として進まぬ。井伊・松平の諸勢が真田丸へ取りついても、半円の塁から浴びせられる矢弾に阻まれ、冬の戦の二の舞となった。堀際には寄せ手の屍が積み、徳川方が望んだ短期の決着は、堅城の前にみるみる遠のいていった。 家康は陣中で長対陣の不利を静かに計った。兵糧も人も日ごとに費え、東国から遠く従えてきた諸大名の不満もくすぶり始める。梅雨を控えた季節、長陣で陣に病が広がることも家康は恐れた。城を一息に落とせぬ以上、大坂攻めは長き囲みとならざるをえない。その先に何が待つかは、老いた家康にもまだ見えてはいなかった。堀が水をたたえ、真田丸が南に立つかぎり、戦の帰趨は誰の手にも定まらぬまま、大坂の夏は長い対陣の日々へと移っていった。
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史実との差分

史実では講和の条件として外堀と内堀が埋め立てられ、真田丸も取り壊されて大坂城は裸城同然となった。この物語では豊臣方が堀の埋め立てを交渉と実力で阻み、真田丸と外堀が残された。そのため夏の陣で豊臣方は野戦を強いられず、堅城に拠って戦えた。幸村も家康本陣への突撃に頼らずに済み、大坂攻めは長期化していった。

読者ノート

大坂城の真の強みは、城そのものの堅さと幾重もの堀にありました。冬の陣の講和でこの堀が失われたことが、夏の陣の結末を大きく左右したと言われています。堀が残ったとしても最終的な勝敗は分かりませんが、戦が長引けば豊臣方に交渉の余地が生まれた可能性はあります。