もし上田城が秀忠軍に落とされていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
真田幸村(信繁)と父・昌幸は、上田城という小城を拠点に、徳川の大軍に立ち向かいました。兵力差は圧倒的で、籠城は大きな賭けでした。
この場面で何が起きていた?
1600年、徳川秀忠の約3万8千の大軍が、数千の真田父子が守る上田城へ押し寄せました。城が力攻めで落ちれば、真田父子の命はありません。
史実ではこうだった
慶長五年九月、上田城は徳川秀忠の大軍に囲まれた。
城に拠るのは真田昌幸・幸村の父子と、わずか数千の兵。寄せ手は約三万八千。兵力の差は、誰の目にも明らかであった。
だが昌幸・幸村父子は地の利を知り尽くしていた。攻め寄せる徳川勢を狭い城下や河原へ誘い込み、伏兵と鉄砲で押し返す。力攻めは通らず、城はびくともしなかった。
秀忠は攻めあぐねた。日を重ねるうちに関ヶ原本戦の報せが届き、徳川の大軍は上田を抜けぬまま西へ転じた。本戦遅参である。
真田父子は城を守り抜いた。寡兵で大軍を退けたその武名は天下に轟き、後年、大坂の陣で再び徳川を脅かす幸村の名へとつながっていく。
もしここが変わったら?
もし上田城が力攻めで落とされ、真田父子が早期に敗れていたら、真田の武名も、後に大坂で家康を追い詰める幸村の戦いも、生まれなかったかもしれません。
上田、九月に落つ。立つはずだった真田の武名が消えた日
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慶長五年九月、中山道を進む徳川秀忠の大軍が、信濃の上田城を幾重にも囲んだ。寄せ手は約三万八千、城に拠る真田昌幸・幸村の父子はわずか数千。兵力の差は誰の目にも明らかであった。城を囲む徳川の旗指物は野を埋め、その数の多さだけで一個の威圧であった。
昌幸と幸村は地の利を頼みに、城下や河原へ徳川勢を誘い込み、伏兵と鉄砲で押し返す構えを取った。最初の数日、寄せ手は狭い道に詰まって思うように進めず、城方の弓と鉄砲が寄せ手の前列を薙いだ。城際の田を踏み荒らされ、稲を伐られて足場を奪われても、城方は土塁と狭間に拠ってよく耐えた。だが秀忠の本陣は焦らなかった。家康から本戦への合流を厳しく急かされていた秀忠は、ここで日を空費すれば父の勘気を蒙ると見て、長対陣を捨て、力攻めに踏み切る。
大手と搦手から同時に鉄砲足軽を押し立て、楯を連ねて堀際へ取りつかせた。城方の伏兵が一度は寄せ手を河原へ追い落としたが、秀忠は兵を惜しまず次の手を繰り出す。屍を踏み越えて寄せ手が堀を埋め、塀へ取りつくと、数千の城兵ではもはや全周を支えきれなかった。鉄砲の煙が城を覆い、喊声が四方から押し寄せる。幸村は手勢を率いて破れ口を幾度も塞ぎ、自ら鉄砲を放っては槍で押し返したが、討っても討っても寄せ手は湧き、人の数が違いすぎた。
搦手の一角がついに崩れ、徳川勢が城内へなだれ込んだ。昌幸は本丸で采を振り続けたが、囲みは縮まる一方であった。幸村は父の傍らに馬を寄せ、なお打って出ようとしたが、寄せ手の鉄砲が馬の脚を払い、退路は塞がれていた。九月のうちに、上田城は落ちた。
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昌幸・幸村父子は捕らえられ、秀忠の陣へ引き据えられた。寡兵で大軍を翻弄する戦は、ここでは生まれなかった。城を抜いた秀忠は兵をまとめて中山道を西へ急ぎ、此度は関ヶ原の本戦に間に合った。秀忠は本戦に間に合い、遅参の咎を受けることはなかった。
戦が収まると、真田父子の処分が評定にかけられた。東軍についた兄・信幸とその舅・本多忠勝(ほんだ・ただかつ)が助命を願い出たが、城を力攻めで落とされ、降ってもいない敗将の命を救う理は薄かった。寡兵で長く粘ったわけでもなく、ただ攻め落とされた敗将に、家康が情をかける道理はなかった。昌幸・幸村父子は敗者として処断され、九度山(くどやま)へ配流されて雌伏する道もまた、開かれなかった。上田・沼田(ぬまた)の真田領は東軍方として残った信幸の手と徳川の沙汰に委ねられ、真田の家名はかろうじて兄の一筋に保たれた。
数年が過ぎても、寡兵で徳川の大軍を退けた「真田の武名」は天下のどこにも生まれなかった。十四年の後、大坂城に出城(でじろ)を築いて家康を脅かす幸村の姿も、ついに現れることはなかった。上田が九月に落ちたという一事が、そこから先のすべての行く末を静かに閉ざしていた。残ったのは、信濃の一城が大軍に抗い、そして抜かれたという素っ気ない記録だけである。それが幸村にとって幸いであったか不幸であったかは、誰にも測れぬまま、時だけが過ぎていった。
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史実との差分
史実では真田父子は上田城を守り抜き、秀忠軍を足止めして本戦への遅参を招いた。この物語では秀忠が力攻めを断行して城を九月のうちに落とし、昌幸・幸村父子は捕らえられて敗者として処断された。秀忠は関ヶ原本戦に間に合い、寡兵で大軍を翻弄した真田の武名も、後年大坂で徳川を脅かす幸村も生まれなかった。
読者ノート
上田城の防戦は、わずかな兵で大軍を足止めしたという結果があってこそ語り継がれました。もし早期に城が落ちていれば、真田の名は一地方の敗者として埋もれたかもしれません。歴史に残るかどうかは、勝敗だけでなくわずかな日数の差にも左右されることがうかがえます。