もし山本勘助と武田信繁が戦死しなかったら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

武田信玄を支えた最重要人物が、軍師・山本勘助(やまもと・かんすけ)と、信玄の実弟・武田信繁(たけだ・のぶしげ)です。勘助は伝説の知将、信繁は『古典厩(こてんきゅう)信繁』として家中の統率を担い、共に信玄の左右の腕とされていました。

この場面で何が起きていた?

永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで、武田家は重要な人材を一度に失いました。山本勘助(やまもと・かんすけ)、武田信繁(たけだ・のぶしげ)、諸角虎定(もろずみ・とらさだ)ら、信玄の戦略と組織を支えてきた重臣たちです。

史実ではこうだった

永禄4年9月10日、八幡原(はちまんぱら)。 霧が晴れた瞬間、信玄本陣の前には予期せぬ敵が立っていた。妻女山(さいじょさん)にいるはずの上杉勢主力1万3千が、霧に紛れて千曲川(ちくまがわ)を渡り、武田本陣を急襲したのだ。啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)の失敗だった。 軍師・山本勘助(やまもと・かんすけ)は床几(しょうぎ)の上で目を閉じた。自らの策が看破されたことを悟ると、勘助は身辺に付いていた武者を呼んだ。 「老夫、敵中に突入する。後を頼む」 御年六十の勘助は槍を取り、自ら敵中に駆け込んだ。策の失敗を死で償う、武人の覚悟だった。勘助は数十人を相手取って奮戦し、討ち死にした。 また信玄の弟・武田信繁(たけだ・のぶしげ)は本陣を守って戦った。兄に薙ぎかかる敵を次々と斬り伏せ、最後は深手を負って絶命した。享年36。家中で『古典厩(こてんきゅう)信繁』と呼ばれ、武田家の統率を支えてきた信頼厚き弟だった。 戦は午後に転じ、武田は辛うじて勝利を収めたが、勘助・信繁・諸角虎定(もろずみ・とらさだ)ら多くの重臣を失った。信玄は涙を流したと伝わる。

もしここが変わったら?

もし勘助と信繁が生き延びていたら、武田家の頭脳と統率の要が温存され、後の西上作戦や信玄死後の家中運営は大きく変わっていたかもしれません。

俯瞰視点

死なせぬ采配――八幡原(はちまんぱら)に残った両腕

上部広告
永禄四年九月十日、八幡原(はちまんぱら)。夜明けの霧が薄れた時、武田信玄の本陣の前に現れたのは、妻女山(さいじょさん)にいるはずの上杉謙信の主力であった。啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)は見抜かれていた。高坂昌信(こうさか・まさのぶ)、馬場信春(ばば・のぶはる)らの別働隊一万二千は妻女山へ向かっており、八幡原に残る信玄本隊は八千ほどにすぎない。冷えた川霧が地を這い、千曲川(ちくまがわ)の水音が遠く聞こえた。兵の吐く息が白く、馬のいななきが朝の静けさを破った。 山本勘助(やまもと・かんすけ)は、床几(しょうぎ)の脇で敵の旗を見つめていた。老いた軍師の顔から血の気が引いている。自らの策が信玄本陣を危地に置いた。責めを負うには、敵中へ駆け込み、死をもって償うほかない。勘助は皺の刻まれた手で槍を取ろうとした。 その時、信玄の声が飛んだ。 「勘助、出るな」 声は荒くなかった。だが、動くことを許さぬ重さがあった。信玄は床几に座したまま、軍配を握り直した。眼差しは敵の旗ではなく、老臣の背に向けられていた。 「策を誤ったなら、生きて立て直せ。死んで詫びる時ではない」 同じころ、信玄の弟・武田信繁(たけだ・のぶしげ)も本陣前へ出ようとしていた。信繁は一門の要であり、家中の声を束ねる男である。兄を守るため、敵勢の厚いところへ身を投じようとしていた。信玄は弟にも命じた。 「典厩、前へ出すぎるな。旗の前を守れ。武田の家を、ここで薄くするな」
記事中広告
信繁は一瞬だけ兄を見た。何か言いかけ、しかし飲み込んだ。やがて無言で頷き、突撃ではなく本陣防衛の指揮へ移った。勘助も槍を置き、崩れかけた足軽の列を組み直した。弓衆と長柄足軽で本陣前を厚くし、わずかな鉄砲を補助の火力として後ろへ添える。敵を倒すためではない。別働隊が戻るまで、本陣を壊させないためであった。 上杉勢の攻めは鋭かった。鬨の声が地を揺らし、柿崎景家(かきざき・かげいえ)の隊が押し込み、信玄の旗本近くまで刃が迫った。諸角虎定(もろずみ・とらさだ)は老躯を押して前へ出、槍を振るって兵を励ました。声は嗄れ、足は震えていたが、その背に若い兵が続いた。だが、その奮戦の中で諸角は深手を負い、やがて倒れた。 信玄は動かなかった。動かぬことが、この日の采配だった。本陣が下がれば全軍が崩れる。信繁は前線を支え、勘助は後方の乱れを整えた。倒れた兵の穴を埋め、下がりすぎた列を押し戻す。死に急がぬ二人の働きが、武田本陣を一刻、また一刻と持たせていった。 午前の終わり、妻女山の空陣に気づいた別働隊が戦場へ戻った。高坂、馬場の兵が上杉勢の後背を突くと、謙信は長居を避けた。上杉勢は千曲川を越え、越後へ退いた。八幡原には、多くの死者と、まだ立っている武田菱の旗が残った。 戦は武田の大勝ではなかった。上杉の急襲を受け、諸角虎定を失い、兵にも深い傷を負った。だが、山本勘助と武田信繁は生きていた。信玄は陣幕で二人を前に座らせた。勘助の鎧には矢傷が残り、信繁の籠手は割れていた。 「今日の負けは、死んで消えるものではない」 信玄はそう言った。陣幕の外では、まだ煙の匂いが残っていた。 九月下旬、武田勢は海津城を中心に北信の守りを立て直した。勘助は千曲川の渡しと妻女山へ通じる道を洗い直し、信繁は北信国衆への起請文と人質の扱いを整えた。川中島の支配は武田に残った。だが、この日から武田家の軍議には一つの新しい決まりが加わった。敗れた策を死で終わらせず、生き残った者に次の仕組みを作らせることであった。
下部広告

史実との差分

史実では山本勘助(やまもと・かんすけ)は啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)の失敗を悔やみ敵中へ突入して討死し、武田信繁(たけだ・のぶしげ)も信玄本陣を守る中で戦死した。この if では信玄が二人の突撃を制止し、勘助を陣形の立て直しへ、信繁を本陣防衛と一門統率へ回す。戦そのものは上杉の急襲と別働隊の帰還により引き分けに近い決着となるが、武田家は頭脳と統率の要を温存する。

読者ノート

この分岐の焦点は、川中島の勝敗そのものより、武田家が勘助と信繁を失わずに済む点にある。諸角虎定(もろずみ・とらさだ)らの損失は残るが、勘助が北信の軍事設計を見直し、信繁が一門と国衆を束ね続けることで、武田家の後年の戦略と後継体制は大きく安定する。