もし信玄が一騎打ちで謙信を討ち取っていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
武田信玄と上杉謙信は、戦国時代を代表する宿敵関係にあった大名です。信濃の支配権を巡って5度にわたって川中島で戦い、互いを認め合うライバルとして語り継がれています。
この場面で何が起きていた?
永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いで、上杉謙信が単騎で武田信玄の本陣に斬り込んだとされる伝説的な場面があります。信玄は軍配でその太刀を受け止めたと伝わります。
史実ではこうだった
永禄4年9月10日、八幡原(はちまんぱら)。
啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)を看破された信玄本陣は、上杉勢の急襲を受けて混乱の極みにあった。武田信繁(たけだ・のぶしげ)、諸角虎定(もろずみ・とらさだ)、山本勘助(やまもと・かんすけ)――名のある武将が次々に討たれていく。
その修羅場の中、白い頭巾をかぶった一騎の武者が信玄の本陣に突入してきた。月毛の馬に跨り、長い太刀を振りかぶる。本陣の旗本たちが立ちはだかるが、押し返される。
武者は床几(しょうぎ)に座る信玄に向かって馬を進めた。
「武田信玄、覚悟!」
太刀が振り下ろされた。信玄は咄嗟に手にしていた軍配で受け止めた。鉄の軍配に三度、太刀が打ち込まれる。
その間に旗本の原大隅(おおすみ)が槍で武者の馬を突き、武者は方向を変えて駆け去った。後にこの武者が上杉謙信本人だったとも、影武者(かげむしゃ)だったとも伝えられる(一騎打ちの史実性には諸説ある)。
戦は午後に転じた。武田の別働隊が戻ってきて上杉勢を挟撃すると、謙信は越後へ撤退した。武田は本陣を守りきったが、信繁、勘助、虎定を失い、痛恨の引き分けとなった。
もしここが変わったら?
もし軍配で受け止めた太刀をかわし、信玄が逆に謙信を討ち取っていたら、越後上杉家は崩壊し、信玄の戦略は大きく変わっていたかもしれません。
八幡原(はちまんぱら)の一閃――信玄、越後の龍を討つ
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永禄四年九月十日、八幡原(はちまんぱら)。夜明けの霧が薄れた時、武田信玄の本陣はすでに上杉勢の圧力を受けていた。妻女山(さいじょさん)にいるはずの上杉謙信は、武田の啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)を見抜き、夜のうちに山を下り、千曲川(ちくまがわ)を渡っていたのである。鶴翼(かくよく)に開くはずだった備えは整わず、霧の切れ目から押し寄せる上杉の旗印が、武田の前列を次々と削っていった。
信玄の本隊は八千ほど。高坂昌信(こうさか・まさのぶ)、馬場信春(ばば・のぶはる)らの別働隊一万二千は妻女山へ向かっており、すぐには戻らない。謙信の主力は一万を超え、霧の中から武田本陣へ鋭く食い込んだ。地を踏む馬蹄と槍の触れ合う音が、川霧に押し潰されるように低く響いた。
弟の武田信繁(たけだ・のぶしげ)は本陣前で奮戦した。諸角虎定(もろずみ・とらさだ)も老いた身を押して兵を励ました。山本勘助(やまもと・かんすけ)は策の失敗を悟り、敵勢の厚いところへ身を投じた。武田の旗はなお立っていたが、その周囲では一人、また一人と重臣が倒れていった。前列が割られるたび、本陣の床几(しょうぎ)までの距離は確実に縮んでいった。
その混乱の中、白頭巾の一騎が本陣へ迫った。月毛の馬が幕を裂き、太刀が光る。旗本が立ちはだかったが、騎馬の勢いは止まらない。白頭巾の武者は床几に座る信玄へ向かって馬を寄せた。
太刀が振り下ろされた。信玄は軍配で受けた。鉄に刃が当たり、乾いた音が本陣に響く。二度目、三度目も、信玄は軍配でしのいだ。旗本が寄ろうとしたが、間合いが狭く、かえって動けない。
四度目、信玄は受けなかった。半身を捻り、太刀の軌道を外す。白頭巾の武者がわずかに体勢を崩した瞬間、信玄は床几から立ち、脇差を抜いた。刃は馬上の武者の脇腹へ入った。崩れ落ちたところを、原大隅(おおすみ)が槍で押さえた。
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首実検の場に、重い沈黙が落ちた。白頭巾の下にあったのは、上杉謙信その人であった。
報せは戦場を走った。上杉勢の勢いが鈍る。主君の死を知らされた柿崎景家(かきざき・かげいえ)、直江景綱(なおえ・かげつな)らは、信玄の本陣を食い破るより、上杉本隊を越後へ戻すことを選ばざるを得なかった。やがて高坂・馬場の別働隊が八幡原へ戻り、上杉勢の後背を圧した。
午後、上杉勢は千曲川を越えて北へ退いた。武田は本陣を守りきり、敵の総大将を討ち取った。だが、勝利の場には、信繁、勘助、諸角の姿がなかった。信玄は謙信の首を前にしても、勝鬨を急がせなかった。
九月下旬、信玄は越後への深追いを禁じた。武田もまた深く傷ついている。今すぐ春日山へ踏み込めば、兵糧は伸び、北信の足元が空く。まず固めるべきは、勝った戦場の先にある支配であった。
高坂昌信は海津城に残され、千曲川の渡しと善光寺平へ通じる道を押さえた。北信の国衆には起請文と人質が求められ、飯山方面へ物見が増やされた。越後では、謙信の死によって春日山の評定が揺れた。謙信の姉の子である長尾顕景は幼く、長尾政景や直江景綱、柿崎景家ら重臣の間で、誰が越後をまとめるかが急ぎ問われた。
信玄は海津城から北へ伸びる道を地図に引かせた。宿敵は消えた。だが、信繁も勘助も戻らない。信濃の北は開けたが、その先にある越後はまだ霧の向こうにあった。
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史実との差分
史実では、信玄は軍配で謙信の太刀を受けたとされ、謙信は戦場から退いた。この if では、信玄が本陣へ切り込んだ謙信をかわして討ち取る。上杉家は突然当主を失い、越後で後継問題が表面化する。一方、武田側も信繁・山本勘助(やまもと・かんすけ)・諸角虎定(もろずみ・とらさだ)らを失っており、すぐに越後へ大侵攻できるほど無傷ではない。
読者ノート
この分岐の焦点は、信玄が謙信を討つという劇的勝利と、武田家が同時に大きな人材損失を抱える点の両立にある。謙信の死で北信の脅威は弱まるが、越後上杉家が即座に消えるわけではない。次の局面は、海津城・千曲川(ちくまがわ)・善光寺平を固める武田と、春日山で後継をまとめようとする上杉重臣たちの政治戦へ移る。