もし秀頼が大坂を出て他国に逃げていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

豊臣秀頼は秀吉の遺児で、当時23歳の青年でした。父・秀吉から『天下』を継ぐ立場でしたが、関ヶ原後は60万石の一大名に転落していました。母・淀殿(よどどの)と共に大坂城に籠もり、徳川と最後の戦いに臨みました。

この場面で何が起きていた?

1615年5月7日、大坂夏の陣の最終決戦で豊臣方は壊滅。大坂城は炎上し、秀頼と淀殿(よどどの)は山里曲輪(やまざとくるわ)に追い詰められました。一説には、家臣に勧められて脱出を試みたとも伝わります。

史実ではこうだった

慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣。 夏の陣の最終決戦は豊臣方の壊滅で終わった。真田幸村は安居神社(やすいじんじゃ)で討たれ、毛利勝永(もうり・かつなが)も奮戦の末に城に戻った。徳川軍は大坂城に迫った。 夕刻、大坂城内に火の手が上がった。台所からの放火と伝わる。城内は混乱し、煙と焔に包まれた。 秀頼は本丸を出て、母・淀殿(よどどの)と共に山里曲輪(やまざとくるわ)に避難した。供は速水守久(はやみ・もりひさ)ら旗本数名。秀頼は当時23歳、徳川との戦に最後まで参加できなかった青年大将だった。 5月8日早朝、徳川軍が山里曲輪を包囲した。井伊直孝(いい・なおたか)の鉄砲衆が外から銃撃を加える中、秀頼は速水と話し合った。「殿、ここまでにございます」。秀頼は刀を抜き、自刃した。淀殿も自害。豊臣家はこの瞬間に滅亡した。 しかし民間伝承では、秀頼は密かに大坂を脱し、薩摩の島津家久(しまづ・いえひさ)を頼って落ち延びたとも伝わる。鹿児島には『秀頼の墓』とされる供養塔も残る。歴史的には伝承の域を出ないが、当時の人々が『秀頼は本当に死んだのか』を疑い続けたことは確かである。 家康は豊臣家滅亡を見届け、翌1616年に駿府で没した。秀頼の生死は、戦国の終わりを締めくくる最後の謎となった。

もしここが変わったら?

もし秀頼が本当に脱出に成功していたら、『太閤の遺児』を担いだ反徳川勢力が燻り続け、江戸幕府の天下は不安定なまま続いていたかもしれません。

俯瞰視点

山里曲輪(やまざとくるわ)の空白――秀頼、薩摩へ落つ

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慶長二十年五月七日、大坂城は炎に包まれていた。夏の陣の最終決戦で豊臣方は崩れ、真田信繁は討たれ、毛利勝永(もうり・かつなが)も城内へ戻った。夕刻、本丸から火が上がり、城内は兵、侍女、小者、負傷者で入り乱れた。 豊臣秀頼は山里曲輪(やまざとくるわ)に移っていた。二十三歳。太閤秀吉の遺児として生まれながら、大坂城の外で戦を動かすことはできなかった。傍らには母・淀殿(よどどの)がいた。淀殿は四十代半ば。顔は白かったが、目の光はまだ消えていなかった。 速水守久(はやみ・もりひさ)が膝をついた。言葉は短かった。 西の抜け道がまだ生きている。堺まで抜ければ小早船がある。瀬戸内を島伝いに下り、薩摩へ向かう。島津家久(しまづ・いえひさ)には、密かに受け入れの意向を確かめてある。 淀殿は静かに首を振った。自分が逃げれば、追手は必ず執念深く追う。自分が山里曲輪で死ねば、徳川方は豊臣の終わりをそこに見たがる。秀頼だけを逃がすには、母が残る必要があった。 秀頼は母を見た。太閤の子として城と共に死ぬ道もある。だが、死ねば豊臣の血はそこで絶える。生きれば、表舞台から消えても、太閤の血はどこかに残る。秀頼は長く沈黙した後、速水の案を受け入れた。 夜半、秀頼は具足を脱ぎ、商人風の小袖に着替えた。供は速水守久、中村孫平次、若い小姓ら数名に絞られた。大坂城北側の混乱に紛れ、一行は城外へ抜けた。背後では、淀殿が山里曲輪に残った。 翌五月八日早朝、井伊直孝(いい・なおたか)の兵が山里曲輪へ踏み込んだ。そこには淀殿の遺体と、秀頼の具足があった。秀頼の遺体は、はっきり確認できなかった。だが、幕府方の報告はすぐに整えられた。豊臣秀頼、母・淀殿と共に自刃。豊臣家滅亡。
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その報告以外を、徳川は望まなかった。 秀頼の一行は堺から小早船に乗った。瀬戸内を西へ下り、塩飽(しわく)、芸予の島々、豊後(ぶんご)水道を避けながら、夜は島陰に隠れ、昼は漁師の体で進んだ。十数日後、薩摩坊津(ぼうのつ)へ入った。島津家久は秀頼を公然とは迎えず、谷山の奥へ匿わせた。 江戸と駿府では、本多正信(ほんだ・まさのぶ)と金地院崇伝(こんちいん・すうでん)が動いた。山里曲輪で秀頼の遺体が確実に確認できなかったことは、少数の者だけが知る事実とされた。堺の商人筋、瀬戸内の船頭、薩摩へ向かった不審な船の話は、すべて噂として処理された。 幕府は『秀頼自刃』の触れを出し、異説を語る者を取り締まった。だが、島津家を正面から問い詰めることはしなかった。問い詰めれば、幕府自身が秀頼生存を疑っていることを認めることになる。島津が否定すれば、それ以上の処置は難しくなる。 そこで正信は、表では沈黙し、裏では監視を増やした。九州の寺社、港、商人筋に隠密を置き、薩摩への金品や人の流れを探らせた。崇伝は寺社方から、秀頼自刃の話を広めさせた。公式の歴史と裏の警戒が、同時に始まった。 翌元和二年、家康は駿府で没した。豊臣家は滅んだとされ、戦国は終わったと語られた。だが、薩摩の山中には、太閤の遺児が生きているという影が残った。 秀忠の代になっても、その噂は消えなかった。島津が動くか。毛利が呼応するか。浪人たちが秀頼の名を担ぐか。幕府は天下を得た。だが、豊臣の血が完全に絶えたと断言できないまま、江戸の世は始まった。
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史実との差分

史実では1615年5月8日、秀頼と淀殿(よどどの)は山里曲輪(やまざとくるわ)で自刃し、豊臣家は滅亡した。この if では秀頼が速水守久(はやみ・もりひさ)らの助けで大坂城を脱出し、堺から瀬戸内を経て薩摩へ逃れる。淀殿は大坂に残って自害し、幕府は公式には『秀頼自刃』として処理するが、秀頼の遺体を確認できなかった事実は幕府内部の不安として残る。

読者ノート

この分岐の焦点は、秀頼が薩摩で再起してすぐ大乱を起こすことではない。むしろ重要なのは、幕府が公式には豊臣滅亡を宣言しながら、裏では薩摩・瀬戸内・九州の監視を続けざるを得なくなる点にある。次の局面は、秀頼本人の挙兵ではなく、太閤の遺児生存という噂が、島津・毛利・浪人層をどう揺らすかへ移る。