もし家康が豊臣家を残していたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

徳川家康は1603年に江戸幕府を開いた後も、豊臣秀頼を完全には排除せず、形式的には豊臣家との二重支配体制が続いていました。最終決断を迫られたのが大坂の陣です。

この場面で何が起きていた?

豊臣家は関ヶ原後に大坂周辺の60万石余に削減されていましたが、依然として『太閤の遺児』としての権威を保っていました。家康は『方広寺(ほうこうじ)鐘銘(しょうめい)事件』を口実に大坂攻めを決断しました。

史実ではこうだった

慶長19年(1614年)夏、家康は豊臣家との対決を決断した。 口実は方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)だった。豊臣秀頼が再建を進めていた方広寺の梵鐘に『国家安康(こっかあんこう)・君臣豊楽(くんしんほうらく)』という銘文が刻まれていた。家康はこれを『家康を分断し、豊臣を君主とする呪詛』と解釈した。明らかに難癖だった。 なぜここで決着をつけねばならなかったのか。家康は73歳、自分の死期を悟っていた。秀忠ではこの問題を解決できない――そう判断した。豊臣家を残せば、孫の代に禍根を残す。 10月、冬の陣が始まった。大坂城は天下の名城、外堀・内堀・本丸の三重の防御を持っていた。家康は和睦と称して外堀を埋めさせ、城の防御力を奪った。 翌年5月、夏の陣。豊臣方は出戦を余儀なくされ、各地で敗退。真田幸村の本陣突撃も紙一重で食い止められ、5月7日に大坂城は炎上。翌8日、秀頼と淀殿(よどどの)は山里曲輪(やまざとくるわ)で自刃した。 豊臣家は滅亡した。家康は天下統一の最後の仕上げを終え、翌1616年に駿府で没した。 もし家康が豊臣家との共存の道を選んでいたら――。徳川の権威と豊臣の権威がどう並立しえたか、それは別の歴史の問いとなる。

もしここが変わったら?

もし家康が豊臣家との共存を選び、攻めなかったら、戦国の終わり方は穏やかになり、徳川と豊臣の二重権威構造が江戸期に持ち越されていたかもしれません。

俯瞰視点

鐘銘(しょうめい)、不問――家康、豊臣を大坂に残す

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慶長十九年夏、駿府城の奥書院に、方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)を書き写した紙が置かれていた。国家安康(こっかあんこう)、君臣豊楽(くんしんほうらく)。金地院崇伝(こんちいん・すうでん)は、その文字が家康の名を分断し、豊臣を君主として楽しむ意を含むと説いた。本多正純も、大坂を討つ口実として十分だと見ていた。書院に詰めた者たちの目は、すでに開戦の側へ傾いていた。 徳川家康は七十三歳である。自らの命が長くないことは、誰よりも分かっていた。豊臣秀頼は二十一歳。太閤秀吉の遺児として大坂城にあり、摂津・河内・和泉の六十万石余を保つ一大名でありながら、なお諸大名の記憶の中では別格の名であった。関ヶ原から十四年が過ぎてなお、その名は消えていない。 家康が命じれば、大坂攻めは始まる。勝てる見込みもあった。大坂城は堅いが、和睦を使って外堀を埋めて堀を奪えば落とせる。城兵の数も、寄せ手の数も、家康の頭の中にはすでに見えていた。その段取りもまた、すでにあった。 だが、家康は紙を畳んだ。 「鐘銘の件、不問とする」 書院は静まった。崇伝は言葉を失い、正純は父の正信へ目を向けた。正信はゆっくり頭を下げた。家康の決断が、単なる慈悲ではないことを知っていたからである。
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家康は、豊臣を滅ぼせば徳川の不安は消えると考えていた。だが同時に、太閤の遺児を自分の手で殺した家として、徳川の名に影が残ることも見ていた。勝って禍根を断つ道もある。残して難題を先へ送る道もある。老いた家康は、最後の戦を起こすかわりに、最後の政治を選んだ。刀で断つより、制度で縛る方が長く効くと見たのである。 秋、片桐且元を通じて大坂へ申し入れが届いた。鐘銘は問わない。豊臣家は摂津・河内・和泉の領知を保つ。ただし、徳川将軍家への臣従を明文化し、秀頼は時期を定めて江戸へ登城する。大坂城は豊臣の居城として残すが、城中の浪人召抱えを制限し、幕府から年寄役を常駐させる。 大坂城内では激論が起きた。淀殿(よどどの)は徳川への屈服を嫌い、大野治長(おおの・はるなが)も容易には頷かなかった。城を枕に戦う覚悟を口にする者もいた。だが、戦えば大坂は焼け、秀頼の血筋は絶える。秀頼は幾夜も母を説き、且元の案を受け入れた。太閤の子として死ぬより、太閤の家を一大名として残す道を選んだのである。 慶長二十年正月、大坂の陣は起こらなかった。外堀は埋められず、城下は焼けず、真田や後藤ら浪人衆が大坂城へ集まることもなかった。大坂町人は安堵し、諸大名は徳川と豊臣の共存を、奇妙な沈黙の中で見守った。誰もが、この均衡がいつまで保つのかを測りかねていた。 翌元和二年、家康は駿府で没した。秀忠は父の遺した書付を前に、豊臣処遇を引き継いだ。まず秀頼の江戸登城日程を詰め、次に大坂城中の年寄役を置き、さらに諸大名へ、豊臣家は幕府の下にある一大名であると触れた。 それでも、豊臣の名は軽くならなかった。大坂城には淀殿が住み、秀頼は太閤の遺児として官位を保ち、近畿の町人や旧豊臣恩顧の家には、なお大坂を特別視する空気が残った。徳川は戦を避けた。だが、その代わりに、秀忠と家光の代へ、刀では片づけられない二重権威の処理を残すことになった。家康が畳んだ最後の戦は、消えたのではなく、政の問いへ姿を変えて次代へ送られたのである。
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史実との差分

史実では家康は方広寺(ほうこうじ)鐘銘(しょうめい)事件を口実に大坂の陣を起こし、1615年に豊臣家を滅ぼした。この if では鐘銘を不問とし、豊臣家を摂津・河内・和泉六十万石余の一大名として存続させる。戦は起きず、秀頼と淀殿(よどどの)は生き残るが、徳川将軍家への臣従、秀頼の江戸登城、大坂城への幕府監視という政治的な制約が加わる。

読者ノート

この分岐の焦点は、豊臣家を残せば平和に解決するという話ではない。戦を避ければ大坂城下の被害は防げるが、豊臣の権威は残る。次の局面は、秀忠が豊臣家を一大名として制度に組み込み、家光の代までに大坂を特別な存在から通常の大名へ変えられるかどうかへ移る。