もし真田幸村の本陣突撃が家康に到達していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
徳川家康は当時74歳、すでに将軍を秀忠に譲り大御所として駿府にいましたが、豊臣家滅亡を見届けるため自ら出陣していました。家康にとって最後の大戦でした。
この場面で何が起きていた?
1615年5月7日、大坂夏の陣の最終決戦の日。真田幸村が3500の手勢で徳川本陣に決死突撃を敢行しました。家康の馬印(うまじるし)が倒されたとも伝わる、戦国時代屈指の名場面です。
史実ではこうだった
慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣最終日。
豊臣方は天王寺・岡山口で徳川軍と最後の決戦に挑んだ。総兵力は徳川15万に対し、豊臣5万5千。圧倒的に不利な状況だった。
その中で、真田幸村は3500の手勢で家康本陣を狙った。茶臼山(ちゃうすやま)に布陣した幸村は、毛利勝永(もうり・かつなが)と連携して徳川先鋒を撃破し、本陣に向かって突進した。
幸村の突撃は凄まじかった。徳川旗本衆が三度押し返され、家康の馬印(うまじるし)が倒れたとも伝わる。家康は自害を覚悟したという(諸説あり)。
だが、幸村は最後の一歩を踏めなかった。家康本陣の手前で力尽き、安居神社(やすいじんじゃ)で松平忠直の家臣・西尾宗次に討ち取られた。享年49。
薩摩の島津家久(しまづ・いえひさ)は『真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由』と書状に記した。日本一の兵、と。
幸村の突撃が紙一重で食い止められた結果、その日の夕刻、大坂城は炎上。翌5月8日、豊臣秀頼と母・淀殿(よどどの)は山里曲輪(やまざとくるわ)で自刃し、豊臣家は滅亡した。家康は74歳で天下統一の総仕上げを終え、翌1616年に駿府で没する。
もしここが変わったら?
もし幸村の突撃が家康に到達していたら、家康は74歳で討たれ、徳川幕府は揺らぎ、戦国の余韻が長引いていたかもしれません。
金扇倒る――真田信繁、家康本陣を破る
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慶長二十年五月七日、天王寺口。大坂夏の陣の最終決戦は、朝から激しかった。豊臣方は劣勢である。大坂城の外堀はすでに埋められ、城に籠もっても長くは保たない。真田信繁は茶臼山(ちゃうすやま)に三千余の兵を置き、毛利勝永(もうり・かつなが)の動きを待っていた。
勝永の隊が徳川先鋒を崩し、本多忠朝らの討死が伝わると、信繁は動いた。赤備えは一段、二段、三段と押し出し、徳川の旗本衆へ正面からぶつかった。押し返されても退き切らず、乱れた旗本の隙を見つけて再び突く。狙いはただ一つ、天王寺方面に据えられた徳川家康の本陣であった。
家康は七十四歳。すでに将軍職は秀忠へ譲っていたが、豊臣家の最期を見届けるため、自ら大坂へ出ていた。床几(しょうぎ)の周囲には旗本が固めていた。だが、真田勢の突撃は、通常の戦列ではなかった。生きて帰る道を最初から薄く見ている兵の圧力が、徳川本陣の前面を裂いた。
金扇の馬印(うまじるし)が揺れた。
一度は立て直された。二度目も旗本が押し返した。だが三度目、赤備えの一角が本陣の脇へ食い込んだ。馬印は傾き、ついに地へ倒れた。
家康の周囲に退去を促す声が上がった。だが、七十四歳の体で即座に馬へ移ることはできない。供回りが盾となり、槍が交わる。混戦の中で、家康が誰の刃に倒れたのかは、後の世まで定まらなかった。ただ、床几の近くで血に伏していたことだけが、複数の兵の証言として残った。
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大御所討死の報は、天王寺口の徳川軍を大きく揺らした。井伊直孝(いい・なおたか)は兵をまとめようとし、藤堂高虎(とうどう・たかとら)、松平忠直らも踏みとどまったが、金扇が倒れた事実は隠しきれなかった。徳川軍は総崩れにはならなかったものの、前線は後ろへ下がり始めた。
信繁も無傷ではなかった。本陣突破の直後、真田勢は四方から押し返され、信繁は深手を負った。安居神社(やすいじんじゃ)の近くで力尽きたとも、茶臼山へ戻る途中で落馬したとも伝わる。家康を討った男は、その勝利を大坂城へ持ち帰ることなく戦場に消えた。
夕刻、大坂城はまだ燃えていなかった。城へ攻め寄せるはずだった徳川方の勢いは止まり、秀頼と淀殿(よどどの)は山里曲輪(やまざとくるわ)へ追い詰められずに済んだ。城内では評定が開かれた。家康を討った今こそ講和を求めるべきだという声と、徳川軍の動揺に乗じて再度出撃すべきだという声が割れた。
だが、徳川の天下が一夜で崩れたわけではなかった。二代将軍・徳川秀忠は岡山口の陣で父の死を聞いた。秀忠は取り乱さなかった。すぐに諸将を集め、家康の遺骸を守らせ、前線を無理に押し上げず、軍を再編するよう命じた。諸大名へは、将軍家が軍令を継ぐこと、大坂攻めは続くこと、勝手な撤兵は許されないことが触れられた。
五月八日、徳川軍は一度包囲線を下げて陣を組み直した。大坂城には数日の猶予が生まれた。秀頼はその猶予を得たが、同時に重い選択を迫られた。講和して豊臣家の存続を求めるか、家康討死を掲げて最後の再戦に賭けるか、あるいは大坂を出て西国へ落ちるか。
真田信繁の突撃は、家康の生を断った。だが、徳川の制度までは断ち切れなかった。戦国最後の一日は、豊臣の滅亡の日ではなく、秀忠が父の死を背負って徳川の天下を自分の名で守り始める日に変わった。
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史実との差分
史実では真田信繁の本陣突撃は家康の直前で食い止められ、同日夕刻に大坂城は炎上し、翌五月八日に秀頼と淀殿(よどどの)は自害した。この if では信繁の突撃が家康本陣を破り、家康が討たれる。徳川軍は一時後退し、大坂城は即日落城を免れる。ただし将軍はすでに秀忠であり、徳川軍の戦力も大きく残っているため、徳川体制そのものは崩壊せず、秀忠の指揮下で再編される。
読者ノート
この分岐の焦点は、家康討死によって豊臣方が即座に勝利することではない。家康の死は徳川軍に大きな衝撃を与えるが、すでに将軍職は秀忠へ移っており、徳川の軍事・政治体制は残る。次の局面は、大坂城が得た数日の猶予を使って、秀頼が講和、再戦、脱出のどれを選ぶかへ移る。