もし家康が伊賀越えで討たれていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

徳川家康は当時41歳、信長の同盟者として三河・遠江・駿河を治める大名でした。安土訪問の答礼で堺に滞在中、本能寺の変が起きました。

この場面で何が起きていた?

1582年6月の本能寺の変直後、堺にいた家康は供わずか30余名で帰国を決断しました。京を経由できないため、伊賀の山中を抜ける危険な脱出行となりました。

史実ではこうだった

天正10年(1582年)6月2日未明、明智光秀が本能寺で信長を討った。 その朝、徳川家康は堺にいた。信長への安土饗応の答礼として上洛途上、寺社や町を見物していたところだった。供は本多忠勝(ほんだ・ただかつ)・酒井忠次(さかい・ただつぐ)・井伊直政(いい・なおまさ)・服部半蔵(はっとり・はんぞう)ら30余名のみ。 変報を受けた家康は、知恩院で自害も口にした。信長への殉死である。だが本多忠勝が諫めた。「殿、まだ三河には我らを待つ者がいる」。家康は決意を改め、三河帰還を選んだ。 問題は経路だった。京は明智の支配下、近江も同様。一行は飯盛山(いいもりやま)から宇治田原(うじたわら)、信楽(しがらき)を経て、伊賀の山中を抜ける道を取った。伊賀は土民一揆と落武者狩りが横行する危険地帯だった。 服部半蔵が動いた。半蔵は伊賀者の出身であり、現地の伊賀者・甲賀者を動員して一行を護衛させた。一行は何度か襲撃を受けながらも、伊勢白子(しろこ)に到達。船で三河に戻った。 家康はこの逃避行を生涯「神君伊賀越え(いがごえ)」と呼んだ。三河帰還後、明智討伐のため出陣準備をしたが、その間に羽柴秀吉が中国大返しから山崎で明智を破り、家康の出番はなくなった。これ以降、天下の主導権は秀吉に移っていく。

もしここが変わったら?

もし家康が伊賀越え(いがごえ)の途中で一揆勢に討たれていたら、徳川家は瓦解し、関ヶ原も江戸幕府も生まれなかったかもしれません。

俯瞰視点

伊賀の谷、徳川消ゆ――家康、三河へ戻れず

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天正十年六月二日未明、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれた。その報が堺に届いた時、徳川家康は安土饗応の答礼として上方に滞在していた。供は本多忠勝(ほんだ・ただかつ)、酒井忠次(さかい・ただつぐ)、井伊直政(いい・なおまさ)、服部半蔵(はっとり・はんぞう)ら三十余名にすぎない。 家康は一度、信長への殉死を口にした。だが、忠勝と忠次が強く諫めた。三河には幼い子がいる。岡崎には家臣がいる。徳川の家は、主が戻って初めて保てる。家康は死に場所を京に求めるのではなく、三河へ帰る道を選んだ。 京と近江は危うい。明智勢が道を押さえれば、少人数の家康一行などひとたまりもない。服部半蔵は伊賀・甲賀の縁を頼り、飯盛山(いいもりやま)、宇治田原(うじたわら)、信楽(しがらき)から柘植(つげ)を抜けて伊勢へ出る道を選んだ。伊勢白子(しろこ)まで出られれば、船で三河へ渡れる。 しかし、伊賀は静かな道ではなかった。前年の天正伊賀の乱の傷はまだ生々しく、信長に村を焼かれた者、身内を失った者、山に潜んでいた地侍や土民が、谷々に残っていた。信長の死の噂は、その恨みと落武者狩りの欲を一度に起こした。 鹿伏兎(かぶと)へ向かう谷道で、一行は一揆勢に囲まれた。竹槍、山刀、鎌、わずかな鉄砲。数は数百。武具は粗末でも、山道を知り尽くした者たちである。半蔵は笛を吹き、味方の伊賀者を呼んだが、手配は間に合わなかった。応じた人数は少なく、谷をふさぐ一揆勢を押し返すには足りなかった。 忠勝が蜻蛉切(とんぼぎり)を構えて前へ出た。井伊直政は後ろを固め、酒井忠次は家康のそばを離れなかった。だが、狭い谷では武勇にも限界があった。鉄砲が鳴り、馬印(うまじるし)が倒れ、山上から石が落ちた。流れ矢が家康の肩を貫き、続いて谷底から駆け上がった地侍の槍が脇腹へ入った。
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家康は三河の名を口にしようとしたが、声にはならなかった。忠勝が駆け寄った時には、すでに息は細い。信長の同盟者、三河・遠江・駿河を押さえた大名は、名も残らぬ伊賀の谷で命を落とした。 忠勝と半蔵は、家康の首だけは奪われまいとした。直政は血まみれになって追手を防ぎ、忠次はわずかな供をまとめて谷を抜けた。遺骸の一部は山中に隠され、首は半蔵が伊賀者の助けを借りて夜のうちに取り戻したと伝わる。 三河へ届いた知らせは、岡崎を凍らせた。嫡男・信康はすでに死に、後継の長丸は幼い。徳川家中は酒井忠次、石川数正、本多忠勝らを中心に岡崎で評定を開いた。家を残すには長丸を立てるしかない。だが、主君を失った徳川が、三河・遠江・駿河を同じ強さで保てるとは誰も言えなかった。 駿河では北条氏直が動きを強めた。甲斐・信濃では、武田滅亡後の空白をめぐって北条、上杉、織田旧臣がにらみ合う。本来であればその争いに強く割って入り、東国へ手を伸ばしていたはずの家康は、もういない。徳川旧臣は三河と岡崎を守ることに追われ、遠江・駿河の国衆は次に従う相手を探し始めた。 六月十三日、羽柴秀吉は山崎で明智光秀を破った。清洲で織田家の後継と所領の処理が話し合われるころ、徳川は有力な同盟者ではなく、幼主を抱える不安定な隣国になっていた。秀吉は東への大きな対抗軸を気にせず、織田家中の主導権を固めていく。 徳川家はすぐには消えなかった。岡崎には長丸が残り、忠勝、忠次、数正らもいる。だが、家康という芯を失った徳川は、東国の均衡を動かす大名ではなく、守るだけで精一杯の家へ変わった。伊賀の谷で倒れた一人の死は、江戸幕府だけでなく、小牧長久手も、関ヶ原も、その前提を静かに消していった。
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史実との差分

史実では家康は服部半蔵(はっとり・はんぞう)の手配と伊賀・甲賀の協力により伊賀越え(いがごえ)を成功させ、伊勢白子(しろこ)から海路で三河へ帰還した。この if では伊賀者の動員が一手遅れ、一揆勢と落武者狩りに襲われて家康が討たれる。徳川家は幼い長丸を擁して岡崎に残るが、家康の統率を失い、三河・遠江・駿河を広く保つ力は大きく削がれる。

読者ノート

この分岐の焦点は、家康が死んだ瞬間に徳川家が完全消滅することではなく、徳川が東国の大きな重しではなくなる点にある。家康がいなければ、天正壬午の乱、小牧長久手、関ヶ原、江戸幕府へ続く道は大きく変わる。次の局面は、岡崎の幼主を守る徳川旧臣と、駿河・甲斐・信濃へ手を伸ばす北条・上杉・羽柴方の駆け引きへ移る。