もし家康が信長に殉じて自害していたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

徳川家康は織田信長と20年来の同盟者でした。信長は同盟者としては理想的で、家康は信長に深い恩義を感じていたとされます。本能寺の変はその信長の突然の死でした。

この場面で何が起きていた?

本能寺の変の報を受けた家康は、知恩院で自害(殉死)を口にしたと伝わります。本多忠勝(ほんだ・ただかつ)らの諫止により思い直しましたが、その瞬間、家康は本気で死を選ぼうとしていました。

史実ではこうだった

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変。 堺見物中だった家康は、変の報を京への上洛途中で受けた。場所は飯盛山(いいもりやま)近くの知恩院だったとされる。 家康は動揺した。信長は20年来の同盟者であり、彼の出世は信長の盟友としての立場に依存していた。さらに自分は明智の標的になりうる。少数の供回りでは京・近江の道は通れない。三河までの道のりは絶望的に思えた。 「ここで信長公に殉ずる」 家康はそう口にした。武士として、同盟者の死に殉じることは恥ずべき選択ではなかった。 本多忠勝(ほんだ・ただかつ)が膝をつき、家康の前に出た。 「殿、なりませぬ。三河には我らを待つ者がおります。今ここで殿を失えば、徳川家は瓦解致します。何としても三河へお帰りいただかねば」 酒井忠次(さかい・ただつぐ)、井伊直政(いい・なおまさ)も同様に進言した。家康は黙り込んだ。 しばらくして家康は言った。 「分かった。三河へ帰る」 ここから家康の伊賀越え(いがごえ)が始まる。服部半蔵(はっとり・はんぞう)が伊賀者・甲賀者を動員し、一行を護衛しながら山中を抜けた。家康はこの逃避行を生涯『神君伊賀越え』と呼び、最大の危機の一つに数えた。

もしここが変わったら?

もし本多忠勝(ほんだ・ただかつ)らの諫止が及ばず、家康が知恩院で自害していたら、徳川家は跡継ぎ問題に直面し、その後の天下の流れは大きく変わっていたかもしれません。

俯瞰視点

知恩院の暁――家康、信長に殉ず

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天正十年六月二日未明、本能寺で織田信長が明智光秀に討たれた。その報が堺にいた徳川家康のもとへ届いた時、家康は安土饗応の答礼として上方に滞在していた。供は本多忠勝(ほんだ・ただかつ)、酒井忠次(さかい・ただつぐ)、井伊直政(いい・なおまさ)、服部半蔵(はっとり・はんぞう)ら三十余名にすぎない。 京は明智の勢力下に入る。近江の道も危うい。三河へ戻るには、伊賀の山中を抜け、伊勢へ出るほかない。だが、その道は土民一揆と落武者狩りが横行する危険な道であった。 一行が飯盛山(いいもりやま)近くの知恩院に身を寄せた時、家康は長く黙っていた。信長は二十年来の同盟者であり、家康が三河から遠江、駿河へ勢力を伸ばすうえで最大の後ろ盾でもあった。その信長が、謀反によって横死した。家康にとって、それは政治の支柱を失うだけでなく、自らの生きる意味を折られる出来事でもあった。 本多忠勝が三河帰還を説いた。酒井忠次も、岡崎には徳川を待つ家臣と幼い後継がいると諫めた。井伊直政は若い顔を強張らせたまま、主君の前に控えていた。服部半蔵は伊賀者・甲賀者を動かす手配を始めようとしていた。 だが、家康の決意は早かった。明智の追手に捕らわれる前に、武士として信長に殉じる。そう決めた家康は、岡崎へ戻る道ではなく、知恩院の一室を最期の場に選んだ。 白布が敷かれ、墨と筆が運ばれた。辞世は短かったと伝わる。家康は長丸を立て、徳川家を譜代の者たちで支えるよう命じた。忠勝はなお食い下がったが、酒井忠次がその肩を押さえた。主君の命を止められないなら、次に守るべきは徳川の家である。
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介錯は井伊直政が務めた。二十一歳の若い武将にとって、それは戦場で敵を斬るよりはるかに重い役であった。暁の薄明の中、家康は信長への殉死を遂げた。享年四十一。 その後の一行に、伊賀越え(いがごえ)はなかった。服部半蔵は生きた主君を護るためではなく、家康の遺骸と首を三河へ届けるために伊賀・甲賀の道を探った。忠勝と忠次は遺骸を駕籠に納め、信楽(しがらき)から伊勢路へ抜け、白子(しろこ)から海路で三河へ戻る手配を進めた。 岡崎へ届いた報は、徳川家中を震撼させた。嫡男・信康はすでに亡く、後継の長丸はまだ幼い。酒井忠次、本多忠勝、石川数正、井伊直政らは岡崎で評定を開き、長丸を立てて徳川家を存続させる方針を決めた。しかし、家康の名で結びついていた三河・遠江・駿河の国衆は、一斉に揺れ始めた。 駿河では北条氏直が動きを強め、甲斐・信濃では武田滅亡後の空白をめぐって北条、上杉、織田旧臣がにらみ合った。家康が生きていれば、天正壬午の乱で強く割って入るはずだった。だが、岡崎の徳川は幼主を守るだけで精いっぱいとなり、遠江・駿河の支配を同じ強さで保つことは難しくなった。 六月十三日、山崎で羽柴秀吉が明智光秀を破った。信長の仇を討った秀吉は、織田家臣団の主導権を急速に握っていく。徳川家康という外側の重い同盟者は、もういない。清洲の評定で徳川は強い発言権を持つ大名ではなく、幼主を抱える保護対象として扱われた。 家康の殉死は、武士としては筋の通った最期に見えた。だが、その選択は、徳川を東国の均衡を支える大名から、岡崎を守るだけで精いっぱいの家へ変えた。後の小牧長久手も、関ヶ原も、江戸幕府も、その前提を知恩院の暁で失ったのである。
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史実との差分

史実では家康は本多忠勝(ほんだ・ただかつ)らの諫止により自害を思いとどまり、服部半蔵(はっとり・はんぞう)の手配で伊賀越え(いがごえ)を成功させて三河へ帰還した。この if では諫止が及ばず、家康は知恩院で信長に殉じて自害する。徳川家は幼い長丸を立てて岡崎に残るが、家康の統率を失い、三河・遠江・駿河を広く保つ力は大きく削がれる。

読者ノート

この分岐の焦点は、家康の殉死を美談として終えることではなく、その死が徳川家と東国の均衡をどのように崩すかにある。家康がいなければ、徳川は秀吉と対抗できる大名ではなくなり、天正壬午の乱、小牧長久手、関ヶ原、江戸幕府へ続く道は大きく変わる。次の局面は、岡崎の幼主を守る徳川旧臣と、駿河・甲斐・信濃へ手を伸ばす北条・上杉・羽柴方の駆け引きへ移る。