もし光秀が家康に追手を派遣していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
徳川家康は信長の主要な同盟者で、明智光秀から見れば信長を討った後に始末すべき有力な敵でした。当時、家康は堺に少数の供で滞在しており、追討するには絶好の機会でした。
この場面で何が起きていた?
本能寺の変の直後、明智光秀は安土城の確保や朝廷工作で手一杯でした。家康追討にまで手が回らず、家康は伊賀越え(いがごえ)で生還できました。これが歴史の分岐点になったかもしれません。
史実ではこうだった
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は本能寺で信長を討った。日本史上最大級のクーデターである。
だが、信長を討った後の光秀の動きは慌ただしかった。安土城の確保、朝廷との交渉、織田家臣団への懐柔工作――やるべきことが山積していた。
光秀の頭にも、徳川家康の存在はあった。家康は信長の最大の同盟者であり、当時堺にいた。供回りはわずか30余名。今討てば、信長の戦略的後継者を一人消せる。
しかし、光秀は家康追討に兵を割かなかった。理由は複合的だった。第一に、本能寺の変の事後処理に人手が必要だった。第二に、家康がどこにいるか正確には掴めていなかった。第三に、家康程度の大名なら後でも対処できると判断したかもしれない。
結果として家康は伊賀越え(いがごえ)で三河に帰還し、光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れて落命した。家康はその後、織田家臣団の動揺の中で東海の独立大名として生き残り、やがて天下取りへの道を歩むことになる。
光秀にとって最大の戦略ミスの一つは、家康を生かしたまま放置したことだった――歴史家はそう指摘する。
もしここが変わったら?
もし光秀が家康追討を優先していたら、家康は伊賀越え(いがごえ)途中で討ち取られ、本能寺の変後の天下争いは光秀対秀吉の二極構造で決着していたかもしれません。
光秀の追討令――伊賀に消えた徳川家康
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天正十年六月二日未明、京の本能寺は炎に包まれた。明智光秀の謀反により織田信長は自害し、二条新御所の信忠も追い詰められ、織田政権は一夜で崩れた。
光秀には処理すべきことが山ほどあった。京を押さえ、安土へ兵を向け、朝廷へ働きかけ、織田家臣団へ書状を送って味方を増やす。どれも後回しにはできない。
だが、その朝、光秀はもう一つの名を口にした。徳川家康である。
家康は信長の同盟者で、三河・遠江・駿河を押さえる東海の大名であった。その時は堺に少数の供で滞在している。京へ戻る道も近江へ抜ける道も危うく、三河へ帰るには伊賀の山中を抜けるほかない。
光秀は斎藤利三(さいとう・としみつ)に二千の兵を預けた。多すぎると見る者もいた。安土と京を固める兵を割けば、政変後処理が薄くなる。だが光秀は討ち漏らしを嫌った。家康を三河へ帰せば、信長の弔いを掲げる新たな柱になる。今逃せば二度と機会はない。
利三は京を発ち、物見を二手に分けた。一方は宇治田原(うじたわら)から信楽(しがらき)へ向かう道を追い、もう一方は伊賀北部の柘植(つげ)・鹿伏兎(かぶと)方面を押さえる。家康一行は飯盛山(いいもりやま)から信楽を抜けて伊賀へ入ると見られ、服部半蔵(はっとり・はんぞう)が伊賀者・甲賀者を集める前に山道を塞ぐ必要があった。
家康の一行は三十余名にすぎない。本多忠勝(ほんだ・ただかつ)、酒井忠次(さかい・ただつぐ)、井伊直政(いい・なおまさ)、半蔵らがいたとはいえ、二千の正規兵を相手にする数ではない。半蔵は伊賀の縁を頼ったが人は足りず、伏兵で時間を稼げても明智勢は押し返せない。
柘植に近い山道で、利三の先鋒が家康一行を捕捉した。狭い谷道で忠勝が蜻蛉切(とんぼぎり)を振るって明智勢の足を止め、半蔵の伊賀者は斜面から矢を射かけた。だが利三は別働隊を山の裏へ回し、逃げ道を先に塞いでいた。
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午の刻を過ぎるころ、家康は小社の近くまで追い詰められた。忠勝はなお前面で粘り、直政は家康の周囲を固める。忠次は退路を探したが、山の向こうにも明智の旗が見えた。
家康は逃げきれないと悟った。信長の死を知った時、一度は殉死を口にした男である。だが、ここまで来たのは死ぬためではなく、三河へ帰るためであった。最期は自害ではなく、囲まれた主君として刃を抜く。
家康は山中で討たれた。首は利三の手で京へ送られる。忠勝は殿軍(しんがり)で深手を負い、なお退かず討死した。直政は負傷しながら数名の供と山中へ逃れ、半蔵は伊賀者に守られて姿を消した。忠次はかろうじて三河へ抜け、討死の報を岡崎へ届ける役を負った。
京に首が届くと、光秀は織田家臣団へ触れを出した。信長、信忠、家康を討ち、織田の勢いは止まった、と。細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)や筒井順慶(つつい・じゅんけい)ら畿内の国衆を動かそうとしたのである。
しかし、追討は代償も与えた。二千の兵と利三を伊賀へ割いたことで、京・近江の固めは薄くなり、安土の確保も工作も遅れた。その隙に羽柴秀吉は毛利と和睦し、中国大返しで畿内へ迫った。
六月十三日、山崎で光秀は秀吉に敗れた。家康を討った成果は、政権を支える時間に変わる前に消えた。だが、家康の死だけは残る。
岡崎では、幼い長丸を立てる評定が開かれた。忠次、石川数正、直政、半蔵らは徳川家を残すために動く。しかし、忠勝と家康を失った徳川は、三河を守るだけで精いっぱいとなる。遠江・駿河の国衆は動揺し、北条氏直は駿河へ目を向け、甲斐・信濃では武田滅亡後の空白をめぐり上杉、北条、羽柴方の駆け引きが始まった。
光秀は天下を取れなかった。だが、家康を三河へ帰さなかったことで後の天下の地図は大きく変わった。小牧長久手で秀吉を止める徳川も、関ヶ原で天下を分ける徳川も、江戸に幕府を開く徳川も、その出発点を伊賀で失った。
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史実との差分
史実では光秀は安土・京の制圧や朝廷工作に追われ、家康追討に兵を割けなかった。家康は服部半蔵(はっとり・はんぞう)の手配と伊賀・甲賀の協力で伊賀越え(いがごえ)を成功させ、三河へ帰還した。この if では光秀が家康追討を優先し、斎藤利三(さいとう・としみつ)に二千の兵を預けて伊賀北部で家康一行を捕捉する。家康は討たれるが、光秀は追討に兵と時間を割いたため畿内の固めが遅れ、山崎で秀吉に敗れる流れは変わらない。
読者ノート
この分岐の焦点は、光秀が家康を討つことで天下を取るという単純な話ではない。家康追討は戦略的には大きな成功だが、同時に京・安土・近江の掌握を薄くする。光秀は山崎で敗れる一方、徳川家康が消えたことで、徳川旧臣、北条、上杉、羽柴方が東国の空白をめぐって動く次の局面へ移る。