もし秀長が存命で、朝鮮出兵を諫止していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
豊臣秀長は、兄・秀吉の無理な構想にしばしば歯止めをかける役回りを担っていました。諸大名の負担や実情を見て、現実的な判断を促す調整役でした。
この場面で何が起きていた?
秀長の死の翌年、1592年から秀吉は二度にわたる朝鮮出兵を強行します。海を越えた長い戦は、多くの将兵を失わせ、諸大名と豊臣政権を著しく疲弊させました。
史実ではこうだった
天正十九年、豊臣秀長は病に没した。
その翌年から、兄・秀吉は明の征服を掲げ、朝鮮への大規模な出兵に踏み切る。文禄の役(ぶんろくのえき)である。海を越えた将兵は補給に苦しみ、戦は泥沼化した。やがて慶長の役(けいちょうのえき)と続く二度の出兵は、加藤清正(かとう・きよまさ)・小西行長(こにし・ゆきなが)ら諸大名を疲弊させ、豊臣政権の体力を奪っていった。
生前の秀長であれば、どうしたか。諸大名の負担を見渡し、海の向こうの戦の無理を説き、兄をいさめたであろうと、人々は語る。専横に走る秀吉の手綱を握れる者は、弟の秀長をおいて他にいなかった。
だが、その秀長はもういない。歯止め役を失った政権は、国力をすり減らす遠征へと突き進んだ。
二度の出兵がもたらした諸大名の不満と疲弊は、秀吉の死後、関ヶ原へと向かう亀裂の遠因になったとも言われる。
もしここが変わったら?
もし秀長が存命で、兄・秀吉の朝鮮出兵を諫めて思いとどまらせていたら、豊臣方は国力と人心を温存し、その後の政権の動揺も和らいでいたかもしれません。
大納言(だいなごん)、海を越える戦を諫める――秀長、兄の渡海を止める
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天正十九年の冬、大和郡山(やまとこおりやま)城で病に伏せていた豊臣秀長は、床を払って起き上がった。医師は強く止めたが、秀長は聞かなかった。兄・秀吉が明の征服を掲げ、朝鮮への大規模な出兵を諸大名へ触れ始めたという報が、伏せった枕元へ次々に届いていたからである。重しの自分が動かねば、誰が兄を止めるのか。秀長はそう考えた。
秀長は、養生をいったん退け、輿を京へ向けさせた。聚楽第(じゅらくだい)の奥で、兄と二人だけの座を求めた。秀吉は上機嫌で、唐入りの絵図を広げ、明の都を踏む日を語った。秀長は黙って聞き、絵図の上に細く引かれた海を、指でゆっくりとなぞった。
「兄者、ここに海がございます」と秀長は言った。海の広さは、絵図の上では一寸ほどにすぎない。だが、その一寸を渡るために、何万の将兵と、何十万石の兵糧と、幾百の船がいるか。渡った先で兵を養う道が、どこにあるのか。秀長は誇りでも理屈でもなく、米と船と人の頭数で語った。
秀吉は機嫌を損ねた。弟が初めて、正面から兄の構想を遮ったからである。だが秀長は退かなかった。九州征伐で日向(ひゅうが)の山道を、兵糧の列とともに難渋しながら進んだのは、ほかならぬ自分である。海の向こうへ兵糧を送り続ける困難を、絵空事ではなく実務として知る者は、この政権に多くなかった。
秀長は一晩を費やした。諸大名にとって渡海の遠征がいかに重い負担かを説き、四国・九州を従えてなお浅い豊臣の地固めを説き、内を固めぬまま外へ手を伸ばす危うさを説いた。最後に秀長は、痩せた身を折って兄の前に手をついた。「天下を取った者が、なぜ天下の外で命をすり減らすのです」と。
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秀吉は長く黙った。弟の病んだ顔を見て、何かを思ったのかもしれない。やがて秀吉は、唐入りの絵図を巻き取らせた。出兵は、当面見送る。明への使者も、無理な要求はさせぬ。そう兄が口にした時、秀長はようやく肩の力を抜いた。座を辞して廊下へ出ると、冬の風が病んだ身に冷たく沁みたが、不思議と足取りは軽かった。
年が明けても、肥前名護屋(なごや)に城は築かれなかった。諸大名へ回されかけていた渡海の触れは取り下げられ、加藤清正(かとう・きよまさ)・小西行長(こにし・ゆきなが)らの軍は、それぞれの国元に留め置かれた。集めかけた船手は解かれ、西国の浦々から徴された水主は、漁と廻船の暮らしへ戻った。
秀長はそのまま郡山へは帰らず、しばらく京に留まって兄を支える日々に戻った。石田三成ら奉行衆は、出兵に代えて検地と街道の整備に人を回した。徳川家康ら東国の大名も、渡海の負担を免れ、領内の普請に手を入れた。豊臣の蔵には米が積まれ、諸国の民は遠征の徴発を案じずに田へ出た。
だが、温存された大きな力が、この先どこへ向かうのかは、誰にも見えてはいなかった。外征を止めた豊臣の内には、なお関白(かんぱく)秀次(ひでつぐ)の処遇や、いずれ生まれうる世継ぎの行く末という重い問いが残っている。秀長は病をおして兄の手綱を握り直したが、その手綱を、いつまで、誰が握り続けられるのか。海を越える戦は止まった。止まった力の行方だけが、まだ霧の中にあった。
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史実との差分
史実では秀長は天正十九年正月に病没し、その翌年から文禄・慶長の役(けいちょうのえき)が始まって豊臣政権を疲弊させた。この if では秀長が存命のまま兄・秀吉を諫め、朝鮮出兵そのものが見送られる。名護屋(なごや)への大動員は行われず、加藤清正(かとう・きよまさ)・小西行長(こにし・ゆきなが)らの軍は国内に留め置かれ、諸大名と国力の消耗が回避される。
読者ノート
この分岐の焦点は、外征を止めたことが安泰を約束するわけではない点にある。渡海遠征の損耗は免れ、政権は国力と人心を温存するが、温存された力がどこへ向かうかは描かれない。関白(かんぱく)秀次(ひでつぐ)や後継をめぐる内政の問いは残り、秀長の手綱がいつまで保つかという不確かさが余韻として残る。