もし島津が決戦を避け、持久に徹していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
豊臣秀長は、軍事だけでなく兵站や戦後処理の調整にも長けた武将でした。九州征伐では、二十万を超える大軍をいかに支えるかが課題でした。
この場面で何が起きていた?
1587年、秀長率いる大軍が日向(ひゅうが)を南下します。島津方は決戦を挑むか、それとも要害に拠って持久し、豊臣の大軍が兵糧切れになるのを待つか、選択を迫られました。
史実ではこうだった
天正十五年、九州。
豊臣秀長は日向(ひゅうが)方面軍を率いて南下していた。兄・秀吉の本軍と合わせれば二十万を超える大軍である。だが大軍ほど、兵糧の続かぬことを秀長は知っていた。海路の輸送と現地の徴発で、辛うじて陣を支えていた。
追い詰められた島津義久(しまづ・よしひさ)・義弘らは、根白坂(ねじろざか)で決戦を選んだ。深夜の夜襲である。だが宮部継潤(みやべ・けいじゅん)の陣は崩れず、藤堂高虎(とうどう・たかとら)・宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)らの援軍も加わって島津勢は撃退された。
決戦に敗れた島津は、組織的な抵抗の力を失った。まもなく義久は剃髪し、秀吉に降伏する。
秀長は降った島津の処遇を調整し、薩摩・大隅(おおすみ)の本領を安堵する寛大な仕置きへと導いた。力で攻め滅ぼすより、降して政権に組み込む――それが秀長の描いた九州の形であった。
もしここが変わったら?
もし島津が決戦を避け、山がちな南九州で持久に徹して豊臣の大軍の補給切れを待っていたら、秀長は長陣に苦しみ、島津はより有利な降伏条件を引き出せたかもしれません。
島津が決戦を避けた日向(ひゅうが)で、秀長が長陣の飢えと向き合った夏
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天正十五年四月、日向(ひゅうが)。豊臣秀長は方面軍を率いて南へ下り、根白坂(ねじろざか)に付城(つけじろ)を築いた。兄・秀吉の本軍と合わせれば二十万を超える大軍である。だが大軍ほど、兵糧の続かぬことを秀長は誰よりも知っていた。海路の輸送と現地の徴発で、辛うじて陣を支える日々が続いていた。
島津義久(しまづ・よしひさ)・義弘の兄弟は、根白坂への夜襲を選ばなかった。決戦に出れば一夜で勝敗が決し、敗れれば薩摩まで一気に踏み込まれる。義久は山がちな南九州の地形に己を委ねた。要害ごとに小勢を残し、本隊は大隅(おおすみ)・薩摩の奥へ退いて堅陣を構え、豊臣の大軍が兵糧を食い尽くすのを待つ持久に徹したのである。決戦を避け、時を味方につける――それが追い詰められた島津の選んだ一手であった。
秀長の前に広がったのは、敵のいない戦場であった。攻めれば敵は山へ退き、追えば谷で待ち伏せる。火縄銃を備えた島津の小勢が隘路から斉射を浴びせ、ひと当てして山へ消える。決戦を求めても影をつかむばかりで、付城の前の道に日数だけが積もっていった。秀長は焦りを面に出さず、宮部継潤(みやべ・けいじゅん)に陣の堅守を命じ、藤堂高虎(とうどう・たかとら)に海からの兵糧運びを急がせ、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)の手勢で輸送路を守らせた。
夏が来ると、兵站が軋みはじめた。海路の輸送は風待ちに阻まれ、嵐に船を失う日もあった。現地の徴発はとうに底をつき、村々からは人も米も消えていた。それでも二十万の口は日々膨大な兵糧を呑み込んだ。前線には粥のような兵糧しか届かず、馬を倒して飢えをしのぐ陣も出た。陣中には病が広がり、夜ごと持ち場を脱ける兵の影があった。長陣は、刃を交えぬまま大軍を内から削っていく。秀長はその痩せていく陣を歩き、これは攻めるより重い戦だと胸の内で呟いた。
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秀長は本陣で思案を重ねた。このまま押せば兵が飢えて崩れる。退けば島津に勢いを与える。さりとて畿内の政務を長く空けるわけにもいかぬ。力で攻め滅ぼすより、降して政権に組み込む――その己の流儀を、いまこそ通すしかないと見定めた。秀長は兄・秀吉へ書を送り、長期の包囲を避けて和睦による決着を説いた。意地を張れば兵を失い畿内の差配まで滞る、と数字を添えて腹を割って書き記した。
秋、ようやく和議が動いた。だが補給に苦しんだ豊臣方は、義久の剃髪と無条件の降伏を待つ余裕を持たなかった。長陣の消耗は、刻ごとに豊臣方の足元を切り崩していたからである。交渉の卓で島津が引き出したのは、薩摩・大隅に加え日向の一部までを含む、本領安堵の広い線であった。秀長は妥協を呑み、その代わりに島津を豊臣の臣として九州につなぎとめた。降して活かすという己の構想だけは、辛うじて守り抜いたのである。
九州仕置は、思いのほか長い月日と大きな譲歩を要して、ようやく形をとった。畿内へ戻る秀長の背に、南九州はなお半ば、島津の手に残されたままであった。降して活かす道は通ったが、その代償が政権にどう響くか――答えはまだ、誰の手にも握られてはいなかった。
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史実との差分
史実では島津が根白坂(ねじろざか)で決戦に出て敗れ、まもなく無条件に近い降伏をして九州平定が短期に完成した。このifでは島津が決戦を避けて持久に徹したため、秀長の大軍は補給難で長陣に苦しみ、島津は薩摩・大隅(おおすみ)に日向(ひゅうが)の一部を加える広い本領安堵を引き出した。九州仕置は史実より時間と妥協を要した。
読者ノート
大軍は強い反面、兵糧と輸送の負担が重く、長陣には脆いものでした。島津が決戦を避けた一手は、秀長の最大の強みである兵站と調整の力を、そのまま最大の弱点へと変えています。勝敗を急がぬ持久が、外交の卓でどれほどの利を生むかを示す一例です。