もし島津の夜襲が成功し、秀長軍が崩れていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

豊臣秀長は、兄・秀吉を支えた名補佐役であり、九州征伐では日向(ひゅうが)方面軍の総大将を務めました。温厚な人柄で知られる一方、軍の指揮にも長けていました。

この場面で何が起きていた?

1587年、秀長軍は日向(ひゅうが)の根白坂(ねじろざか)に付城(つけじろ)を築いて南下していました。追い詰められた島津方は、この陣へ決死の夜襲を仕掛けます。

史実ではこうだった

天正十五年四月、日向(ひゅうが)・根白坂(ねじろざか)。 豊臣秀長は日向方面軍を率い、島津の本拠へ迫る付城(つけじろ)を築いていた。兄・秀吉の二十万を超える大軍を背に、九州平定はもはや時間の問題と見えた。 追い詰められた島津義久(しまづ・よしひさ)・義弘らは、決死の賭けに出る。深夜、闇に紛れて秀長方の付城へ夜襲をかけたのである。 宮部継潤(みやべ・けいじゅん)の守る陣が、まず襲われた。鉄砲と槍が暗闇で交錯し、陣は何度も崩れかけた。だが継潤は持ちこたえ、報せを受けた秀長は藤堂高虎(とうどう・たかとら)・宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)らの援軍を急派した。 夜が明けるころ、島津勢は多くの将を失って退いた。決死の夜襲は実らなかった。 この敗北で島津は抵抗の力を失い、まもなく義久は剃髪して秀吉に降る。秀長は戦後の仕置きの調整にもあたり、降った島津を豊臣政権の枠組みへと収めていった。

もしここが変わったら?

もし島津の夜襲が成功し、秀長の本軍が根白坂(ねじろざか)で崩れていたら、九州平定は大きく遅れ、島津は南九州で抵抗を続ける道を得ていたかもしれません。

俯瞰視点

根白坂(ねじろざか)、崩れた付城(つけじろ) 秀長の日向(ひゅうが)方面軍が総崩れになった夜

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天正十五年四月十七日の深夜、日向(ひゅうが)・根白坂(ねじろざか)は雨をはらんだ風に覆われていた。豊臣秀長の日向方面軍は付城(つけじろ)を連ね、島津の本拠へじりじりと迫っていた。兄・秀吉の二十万を超える大軍を背に、九州平定はもはや時間の問題と、陣中の誰もが見ていた。秀長自身、付城の縄張りを念入りに検め、宮部継潤(みやべ・けいじゅん)に最前の守りを託し、藤堂高虎(とうどう・たかとら)や宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)の備えを後方に厚く置いて、油断なく夜を迎えていた。 だが島津義久(しまづ・よしひさ)・義弘は、追い詰められた末の一手として決死の夜襲を選んだ。降伏して家を縮められるより、ここで秀長の本軍を打ち砕き、和睦の条件を引き寄せる――そう肚を据えた将兵が、薩摩から日向へ静かに繰り出した。先頭の兵が闇を縫って斜面を駆け上がり、継潤の守る付城に取りついたのは、月のない時刻であった。 鉄砲の火花が暗闇に散り、槍と槍が柵越しに交わった。継潤は声を嗄らして兵を励まし、何度も突き返した。だがこの夜は島津兵の勢いが勝った。柵が一角で破られると、崩れは雪崩のように広がった。後方の陣はまだ事態を呑み込めぬまま、逃れてくる味方と、追ってくる島津兵を闇の中で区別できず、同士討ちさえ起こって混乱は深まった。雨は火縄を湿らせ、鉄砲の頼みは利かず、近間の槍働きと白刃の押し合いに勝負は移った。地の利を知る島津兵は、闇の斜面をむしろ味方として駆け、付城の一つ、また一つと火を放っていった。 秀長は本陣で報せを受け、即座に高虎・秀家らの援軍を繰り出させた。けれども、闇と雨と急峻な地形がことごとく味方しなかった。援軍は崩れてくる自軍の流れに呑まれ、隊伍を組み直す間もなく押し戻された。秀長は床几(しょうぎ)を蹴って立ち、踏みとどまる兵を集めようと自ら声を張った。しかし一度ほどけた糸は、容易には結び直せない。火縄の明かりが点々と斜面を流れ落ちていくのを、秀長は奥歯を噛んで見つめるほかなかった。
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夜が明けるころ、根白坂の付城群は島津の手に落ち、秀長の日向方面軍は形を失って北へ退いていた。秀長自身は近臣に固められて陣を脱し、命は保ったが、率いてきた軍はもはや軍の体をなしていなかった。 この一夜の崩壊は、九州全体の図を描き直させた。島津は組織的な抵抗の力を取り戻し、薩摩・大隅(おおすみ)・日向南部を背にして退かずに構えた。秀吉は北の本軍を立て直しつつ、なお降伏の機を待つ構えを崩さなかったが、秀長軍の損害は重く、攻勢の足は目に見えて鈍った。 数か月の後、九州の地図はなお流動していた。豊臣方は焼かれた付城を築き直し、海路と陸路の兵站を整えて再びの南下を図ったが、義久は剃髪も降伏もせず、南九州の山と川を恃みに抵抗を続けた。日向の南半は島津方の旗が翻り、降る構えを見せていた在地の領主たちも、戦況を見極めるまではと態度を保留した。戦後の調整に手腕を発揮するつもりであった秀長は、損なわれた軍をいかに立て直すかという難題に向き合うことになった。兄・秀吉のもとへ送る書状に、秀長は敗報と再起の算段を几帳面に書き連ねたが、筆の運びはいつになく重かった。九州平定は長い時間を要する見通しとなり、誰の手で、どのような形で収まるのかは、まだ深い闇の中にあった。
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史実との差分

史実では宮部継潤(みやべ・けいじゅん)の陣が夜襲を持ちこたえ、藤堂高虎(とうどう・たかとら)・宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)らの援軍も加わって島津を撃退し、島津義久(しまづ・よしひさ)はまもなく剃髪して降伏、九州平定が完成した。この物語では夜襲が成功して秀長の日向(ひゅうが)方面軍が崩れ、島津が薩摩・大隅(おおすみ)・日向南部で抵抗を続ける余地を得た。豊臣方は態勢を立て直して再侵攻を図るが、九州平定は大きく遅れ、流動的な状態が続く。

読者ノート

勝敗を分けたのは、闇と雨と地形という偶然に近い要素であったかもしれません。温厚で人望厚い秀長は史実では戦後の調整役として島津を政権につなぎとめましたが、その役割を果たす前に軍を失えば、平定の遅れは政権全体に波及しえました。ひとつの夜の崩れが、その後の九州仕置の形をどれほど変えうるかを考えさせる分岐です。