もし秀吉がより早く死去し、慶長の役が早期撤兵となっていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
豊臣秀吉は1597年時点で61歳、健康を害して伏見(ふしみ)城に籠もりがちでした。慶長の役(けいちょうのえき)は秀吉の強い意志で再開されており、その死は撤兵の唯一の条件でした。
この場面で何が起きていた?
1597年7月、慶長の役(けいちょうのえき)が開戦。加藤清正(かとう・きよまさ)・黒田長政(くろだ・ながまさ)らが朝鮮南部に倭城(わじょう)を築き、明・朝鮮連合軍と消耗戦を続けていました。一方、秀吉は伏見(ふしみ)城で病に伏せがちで、五大老(ごたいろう)・五奉行(ごぶぎょう)が枕元に並ぶ日が増えていました。
史実ではこうだった
慶長2年(1597年)11月、伏見(ふしみ)城。
秀吉は熱に浮かされていた。10月から食が細り、医師が薬を煎じても容態は戻らなかった。傍らには北政所(きたのまんどころ)と淀殿(よどどの)、そして幼い秀頼が控えていた。秀頼は5歳になっていた。
秀吉は朝鮮の戦況を案じていた。蔚山(うるさん)城が明・朝鮮連合軍5万に囲まれ、加藤清正(かとう・きよまさ)が籠城戦を強いられているという報せが届いていた。救援に向かった黒田長政(くろだ・ながまさ)・毛利秀元(もうり・ひでもと)らが何とか敵を退けたが、日本軍の損害は大きかった。
11月末、秀吉は意識を失った。前田利家・徳川家康ら五大老(ごたいろう)と石田三成ら五奉行(ごぶぎょう)が枕元に集まった。秀吉は秀頼の手を取り、「秀頼を頼む」と何度も繰り返したと伝わる。12月初め、秀吉は伏見で息を引き取った。享年61。
五大老は即時の撤兵を決定した。家康は『先君の遺命』と称して、朝鮮渡海中の諸将に帰国命令を出した。加藤清正、小西行長(こにし・ゆきなが)、黒田長政らは1598年春までに次々と帰国を果たした。
慶長の役(けいちょうのえき)は実質半年余りで終結した。日本軍の人的損害は文禄の役(ぶんろくのえき)を下回り、西国大名の財政疲弊も史実より浅く済んだ。
だが、文治派と武断派の対立の種は残った。蔚山救援で苦戦した武断派は、戦況報告を巡って文治派の石田三成と諍いを起こしていた。秀頼はまだ5歳、家康は天下の趨勢を冷静に見ていた。
もし秀吉の死がもう少し早ければ――被害は半減し、豊臣政権の延命は数年単位で違っていたかもしれない。
もしここが変わったら?
もし秀吉が1597年末に死去し、慶長の役(けいちょうのえき)が半年で終結していたら、豊臣家臣団の決裂は浅く済み、関ヶ原の戦いの構図は大きく変わっていた可能性があります。
伏見(ふしみ)の冬――太閤早逝、唐入り半ばで終わる
上部広告
慶長二年十二月、伏見(ふしみ)城の奥御殿は重い沈黙に包まれていた。豊臣秀吉は秋口から食が細り、床を離れられない日が増えていた。慶長の役(けいちょうのえき)が始まってまだ半年余り。朝鮮南部では、加藤清正(かとう・きよまさ)、黒田長政(くろだ・ながまさ)、小西行長(こにし・ゆきなが)、島津義弘(しまづ・よしひろ)らが倭城(わじょう)を築き、明・朝鮮連合軍と消耗戦を続けている。
枕元には徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)ら五大老(ごたいろう)が並び、廊下には石田三成、増田長盛、長束正家ら奉行衆が控えていた。北政所(きたのまんどころ)と淀殿(よどどの)は奥で秀頼を守り、伏見城中には、誰も口に出せない不安が漂っていた。
秀吉は、もはや朝鮮の戦況を細かく聞き分けられなかった。それでも、蔚山(うるさん)、順天、泗川、釜山(ふざん)という地名にはかすかに反応した。蔚山では清正が明・朝鮮の大軍に囲まれ、黒田長政、毛利秀元(もうり・ひでもと)らの救援が急がれている。海の向こうには、太閤の命によって渡った兵が、冬の城で飢えと寒さに耐えていた。
十二月の末、秀吉は秀頼の手を握らされ、かすかな声で後事を託した。言葉は途切れがちだったが、周囲の者は、その意味を理解した。秀頼を頼む。唐入りを、これ以上長く続けるな。そう聞き取った者もいた。
ほどなく、秀吉は息を引き取った。享年六十一。覚悟していた者にとってさえ、なお早すぎる死であった。
伏見ではすぐに評定が開かれた。家康は、まず秀頼の安堵と太閤薨去の秘匿を命じた。利家は豊臣家の体面を守ることを求め、三成は朝鮮在陣諸将への撤兵手順を急いで整えた。秀吉の死を公にすれば、明・朝鮮軍が総攻撃に出る恐れがある。だが、命令が遅れれば、倭城の兵はさらに削られる。
記事中広告
五大老と五奉行(ごぶぎょう)の連署によって、撤兵の朱印状が作られた。蔚山救援を終え次第、清正を釜山方面へ下げること。順天の小西行長は明側との局地交渉を進め、島津義弘は泗川からの退き口を固めること。黒田長政と毛利秀元は、撤退する諸隊の後詰を務めること。命令は早馬と早船で名護屋(なごや)へ送られ、そこから釜山へ渡った。
慶長三年正月、蔚山城では清正が辛くも救援を得ていた。飢えと寒さで兵は痩せ、城内には死者が積み重なっている。そこへ太閤薨去と撤兵命令が届いた。清正は長く黙り、やがて兵の引き払いを命じた。小西行長は順天で明側と停戦の糸口を探り、島津義弘も無理な出撃を避けて船の手配に移った。
明・朝鮮側も、ただちに大追撃へは出なかった。長い戦で疲れていたのは双方同じである。日本軍が倭城を捨てて海へ戻るなら、これ以上の損耗を避けたいという判断も働いた。春までに、在朝日本軍の多くは九州へ帰還した。
慶長の役は、半年余りで終わった。蔚山、順天、泗川の損害は残ったが、翌年末まで南岸の倭城で消耗し続けるような事態には至らなかった。西国大名の財政疲弊は浅く、武断派と文治派の対立も、まだ決定的な憎悪へは育ち切っていなかった。
だが、豊臣政権が安泰になったわけではない。秀頼はまだ五歳である。家康は撤兵判断を主導した大老として存在感を増し、利家は病を抱えながら大坂で秀頼を守る。清正ら武断派は、苦戦の報告をめぐって三成への不満を消していない。三成もまた、撤兵と論功の実務を通じて、諸将の感情を扱わねばならなかった。
外征の傷は浅く済んだ。だが、太閤を失った豊臣政権は、幼い秀頼を中心に、大老と奉行が互いを牽制しながら支える政へ移った。戦は早く終わった。しかし、誰がその終わりを仕切ったのかという記憶が、次の政局の火種になっていった。
下部広告
史実との差分
史実では秀吉は1598年8月に死去し、撤兵は同年11月まで続いた。この if では秀吉が1597年末に死去し、五大老(ごたいろう)・五奉行(ごぶぎょう)が蔚山(うるさん)救援直後に即時撤兵を決定する。慶長の役(けいちょうのえき)は半年余りで終わり、人的・財政的損耗は史実より浅くなる。ただし、秀頼の幼さ、家康の主導権、三成と武断派の不信は残る。
読者ノート
この分岐の焦点は、秀吉が早く死ねば豊臣政権が安定するという話ではない。早期撤兵によって外征の傷は浅く済むが、撤兵を主導した家康の存在感は増し、三成は撤兵実務と論功で諸将の不満を受ける立場になる。次の局面は、外征後処理が軽く済んだ豊臣政権で、秀頼後見体制をどこまで維持できるかへ移る。