もし秀吉が朝鮮出兵を断念していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
豊臣秀吉は1590年に小田原征伐で天下統一を完成させ、関白(かんぱく)・太政大臣として日本全土を支配下に置きました。次なる目標を海外に求めたのが、朝鮮出兵です。
この場面で何が起きていた?
1591年、秀吉は明国征服の意向を諸大名に伝え、肥前名護屋(なごや)に出兵拠点の城を築き始めます。当初から黒田如水(くろだ・じょすい)・徳川家康ら一部の重臣は出兵に消極的でしたが、秀吉の決意は固く、1592年4月に文禄の役(ぶんろくのえき)が始まりました。
史実ではこうだった
天正十九年冬、聚楽第(じゅらくだい)。
秀吉は諸大名を集め、明国征服の壮大な計画を語った。「日本だけでは家臣に与える恩賞が足りぬ。明・朝鮮・南蛮まで切り従え、わが日輪の輝きを四海に届かせる」。
座は静まり返った。徳川家康は黙し、前田利家は目を伏せ、黒田如水(くろだ・じょすい)は無表情だった。誰も賛同しなかったが、誰も止められなかった。
翌一五九二年四月、文禄の役(ぶんろくのえき)が始まる。加藤清正(かとう・きよまさ)・小西行長(こにし・ゆきなが)ら九軍、約十六万の兵が朝鮮半島へ渡った。緒戦は破竹の勢いで漢城(かんじょう)・平壌(へいじょう)を占領したが、明軍の介入と李舜臣(り・しゅんしん)の朝鮮水軍に補給線を断たれ、戦線は膠着した。
一五九三年から始まった和平交渉は一五九六年に決裂、一五九七年には再び慶長の役(けいちょうのえき)が始まる。だが秀吉は一五九八年八月十八日、伏見(ふしみ)城で病没した。享年六十二。遺命により撤兵が決定され、戦役は終結した。
この戦役で動員された西国大名は財政的に大きく疲弊し、文治派の石田三成と武断派の加藤清正・福島正則(ふくしま・まさのり)らの対立は決定的となった。豊臣家を支えるべき家臣団は分裂し、秀吉死後わずか二年で関ヶ原の戦いが勃発する。
もしここが変わったら?
もし秀吉が朝鮮出兵を断念し、内政整備を優先していたら、豊臣政権は秀吉死後も長く続き、関ヶ原の戦いは起こらなかったかもしれません。日本の近世史は、まったく違う姿になっていたでしょう。
今回の視点俯瞰視点
海を渡らぬ太閤――名護屋(なごや)に立たぬ城
天正十九年八月、豊臣秀吉の嫡子・鶴松が三歳で世を去った。聚楽第(じゅらくだい)の奥は静まり、諸大名の弔問も短く済まされた。秀吉は髪を落とし、幼い木彫りの玩具を長く手元に置いたまま、誰にも会わない日を続けた。
そのころ、肥前名護屋(なごや)では明国征服に向けた城普請の準備が進んでいた。九州の諸大名には舟手の用意が求められ、瀬戸内や志摩、伊勢の船持ちにも、水夫や船の差し出しが噂されていた。加藤清正(かとう・きよまさ)、小西行長(こにし・ゆきなが)、福島正則(ふくしま・まさのり)らは渡海の軍役を見越して兵と兵糧を整えつつあった。
だが、鶴松の死後、秀吉の筆は名護屋築城の朱印に向かわなかった。
年の暮れ、秀吉は徳川家康、前田利家、黒田如水(くろだ・じょすい)、石田三成らを伏見(ふしみ)へ呼んだ。席上で語られたのは、明国征服ではなかった。海の向こうへ兵を送る沙汰は当面見合わせる。肥前名護屋の大規模普請は中止する。諸大名は国内の検地、城割、堤防、街道、港の整備へ力を戻す。秀吉の命は、そのように改められた。
家康は深く頭を下げた。利家は安堵を表に出さなかった。如水(じょすい)は一度だけ三成へ目を向けた。三成はすでに、太閤蔵入地の再整理と諸大名への軍役振替の算用を頭の中で始めていた。
出兵は止まった。九州の浜に集められかけた舟は国元へ戻され、名護屋へ運ばれかけた材木と石は、港や堤の普請へ回された。西国大名は渡海の大消耗を避け、朝鮮の戦場で小西と清正が対立することもなかった。軍監として三成が現地の武断派と衝突する機会も失われた。
代わりに、別の不満が国内へ残った。清正や正則のように武功で身を立ててきた大名は、外征という大きな手柄の場を失った。秀吉は彼らを黙らせるため、九州沿岸警備、諸城改修、河川普請、寺社造営などを軍役の代替として割り当てた。だが、槍で得る名誉と、堤を築く名誉は同じではなかった。
天正二十年、秀吉は関白(かんぱく)職を甥の秀次(ひでつぐ)へ譲り、自らは太閤として政務の上に立った。出兵がなかったため、全国の大名は大規模な海外動員から解放され、国内統治はかえって落ち着きを取り戻した。家康は関東で検地と城下整備を進め、江戸を着実に大名支配の中心へ変えていった。
文禄二年、淀殿(よどどの)が再び男児を産んだ。秀頼である。秀吉は歓喜したが、豊臣政権には新しい問題が生まれた。すでに関白となった秀次をどう扱うのか。生まれたばかりの秀頼を、将来どのように豊臣の中心へ据えるのか。朝鮮出兵をしなかったことで政権の体力は残ったが、継承問題そのものが消えたわけではなかった。
秀吉は、秀次をすぐには排除しなかった。秀次を関白として残し、秀頼は太閤家の嫡流として大坂で育てる。家康、利家、毛利輝元、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)らには、秀頼成人まで豊臣家を支える誓紙を出させた。三成はその文案を整え、如水は文言の危うさを削った。
豊臣の天下は海を渡らなかった。西国大名の財政は大きく傷まず、文治派と武断派の溝も朝鮮の戦場で決定的に裂けることはなかった。渡海の軍役に向けて集められていた兵糧と銭は、西国大名の蔵にそのまま積まれて残った。とりわけ関東では、家康が一兵も海の向こうへ割かず、その分の人足と扶持を検地と江戸普請へ注ぎ込み、城下が目に見えて形を整えていった。
出兵をやめたことで、豊臣政権は崩壊への坂を一つ避けた。だがそのかわり、次に争われるのは朝鮮の野ではなく、豊臣家の内側となった。関白秀次と幼い秀頼をどう並び立たせるか、武功の場を奪われた清正・正則らの不満をどこへ向けるか、関東に膨らむ家康をいかに誓紙で縛るか。伏見の一室で、三成は諸大名の誓紙を灯火のもとに並べ、如水はその文言に潜む逃げ道を指し示していた。積まれた起請文の束だけが、この政権の危うさを静かに物語っていた。
史実との差分
史実では1591年末から肥前名護屋(なごや)の築城が本格化し、1592年4月に文禄の役(ぶんろくのえき)が始まった。この if では鶴松の死を契機に秀吉が朝鮮出兵を断念し、名護屋築城と渡海動員を中止する。西国大名の疲弊や朝鮮戦場での文治派・武断派対立は避けられるが、武断派の功名欲、秀次(ひでつぐ)と秀頼の継承問題、家康の関東経営という別の課題が残る。
読者ノート
この分岐の焦点は、朝鮮出兵がなければ豊臣政権が完全に安泰になるという話ではない。出兵中止によって政権の体力は残るが、余った軍事力と武功欲を国内制度へ組み込む必要が生まれる。次の局面は、秀次(ひでつぐ)を関白(かんぱく)として残したまま秀頼をどう位置づけ、家康をどこまで後見秩序に縛れるかへ移る。