もし明との和平交渉が成立していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
小西行長(こにし・ゆきなが)は秀吉子飼いの武将で、朝鮮出兵では先鋒として漢城(かんじょう)・平壌(へいじょう)を陥落させました。明との和平交渉では沈惟敬(しん・いけい)と組んで講和を進めようとしましたが、双方の条件が大きく食い違っていたため、虚偽を交えて取り繕いました。
この場面で何が起きていた?
1596年9月、明の冊封使(さくほうし)が大坂城を訪れ、秀吉を『日本国王』に封じる詔書を読み上げました。秀吉は『誰が明の臣下になると言った』と激怒し、講和は決裂、翌年の慶長の役(けいちょうのえき)へとつながります。
史実ではこうだった
慶長元年(1596年)9月、大坂城。
明の冊封使(さくほうし)・楊方亨(よう・ほうきょう)と沈惟敬(しん・いけい)が大坂城に到着し、秀吉に明帝の詔書を奉呈した。場には小西行長(こにし・ゆきなが)と石田三成、そして諸大名が居並んだ。行長は青ざめていた。彼と沈惟敬が双方の主君を欺いて取り繕った『和平』が、いままさに化けの皮を剥がそうとしていた。
詔書が読み上げられる。「特に爾を封じて日本国王と為す――」。
秀吉の顔色が変わった。
秀吉が明に求めた講和条件は7か条あった。明皇女を日本の后とすること、勘合貿易(かんごうぼうえき)の復活、朝鮮南部の割譲などである。だが届いたのは『日本国王に封じる』という、相手を朝貢国扱いする文書だった。
「誰が明の臣下になると言った」。
秀吉は詔書を投げ捨て、座を蹴って立った。小西行長は失脚寸前まで追い込まれ、沈惟敬は後に処刑される。和平は破綻し、翌1597年、慶長の役(けいちょうのえき)が始まった。
2度目の朝鮮出兵では、加藤清正(かとう・きよまさ)・黒田長政(くろだ・ながまさ)らが朝鮮南部に倭城(わじょう)を築き、消耗戦が続いた。1598年8月、秀吉の死を受けて日本軍は撤退するが、戦役の傷跡は深かった。
もしあの大坂城の場で、秀吉が激怒せず冷静に詔書を受け、形式上は『日本国王』を呑んでいれば――。実利として朝鮮南部の経営権や勘合貿易の枠を引き出す形で、講和に持ち込むこともできたかもしれない。慶長の役は起こらず、豊臣政権の疲弊もここで止まっていただろう。
もしここが変わったら?
もし1596年の段階で秀吉が体面より実利を取り、明との講和を受諾していたら、慶長の役(けいちょうのえき)は起こらず、豊臣家臣団の決裂も浅く済んだかもしれません。秀吉死後の政権安定も、大きく違っていたでしょう。
大坂城、詔書の朝――秀吉、名を呑み実を取る
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慶長元年九月、大坂城本丸の大広間は、異様な静けさに包まれていた。明の冊封使(さくほうし)・楊方亨(よう・ほうきょう)と沈惟敬(しん・いけい)が詔書を奉じ、太閤秀吉の前に進み出る。下座には徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)ら大老格が控え、石田三成、増田長盛ら奉行衆も並んでいた。少し離れた場所で、小西行長(こにし・ゆきなが)は青ざめた顔を伏せていた。
詔書が読み上げられた。
明の皇帝は、秀吉を日本国王に封じる。そういう文意であった。
広間の空気が凍った。秀吉が望んでいたのは、明皇女の降嫁、勘合貿易(かんごうぼうえき)の復活、朝鮮南部の割譲、王子の人質などを含む講和条件である。だが詔書にあるのは、明が日本の君主を冊封するという一方的な秩序の確認だけだった。天下人として日本を統一した秀吉を、明の朝貢秩序の中へ置く文面である。
秀吉の指が脇息を強く押した。家臣たちは、怒声が落ちるのを待った。沈惟敬は顔色を失い、小西行長は畳の目を見つめた。加藤清正(かとう・きよまさ)は、唇を固く結んだ。
だが、秀吉はすぐには声を荒げなかった。
もう一度読め、とだけ命じた。
二度目の朗読の間、秀吉は天井の梁を見ていた。文禄の役(ぶんろくのえき)で渡海した諸将はすでに疲れている。小西行長と加藤清正の対立は深く、三成ら奉行衆への不満も強い。釜山(ふざん)、熊川、蔚山(うるさん)の倭城(わじょう)には、病み、凍え、帰国を待つ兵が残っている。秀頼はまだ幼い。ここで体面のために再び十数万を海へ送れば、豊臣家の内側から亀裂が広がる。
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朗読が終わると、秀吉は低く言った。
日本国王の号は受ける。ただし、勘合貿易の再開、釜山周辺の限定的な在番、捕虜送還、朝鮮沿岸での停戦手順は、別書面として明・朝鮮・日本の実務者間で整える。
広間にざわめきが起きた。三成が膝を進めたが、秀吉は手で制した。名は明へ渡してよい。兵と米と船を日本へ戻す。秀頼に、これ以上の海の戦を残さない。その言葉は、怒りを抑え込んだ者の声であった。
小西行長は深く平伏した。沈惟敬も命をつないだ。楊方亨は、明の体面が守られたと見て安堵した。だが、加藤清正の顔は晴れなかった。蔚山の冬を生き、朝鮮の野を進んだ武断派にとって、紙の上の講和は、自分たちの戦を値切られたようにも見えた。
数か月後、釜山周辺の倭城では撤収が始まった。ただし、完全撤兵ではなかった。日本側は交易と連絡のための小規模な在番を残し、明側はそれを皇帝の寛大な処置として処理し、朝鮮側は苦い沈黙で受け入れた。捕虜の返還と遺骨の収容が始まり、船は肥前、博多、対馬へ兵を運んだ。
慶長の役(けいちょうのえき)は起こらなかった。蔚山籠城も、南原の惨禍も、二度目の大動員も避けられた。二度目の大動員がなかったぶん西国大名の消耗は浅く済み、小西行長は失脚を免れた。三成は撤兵と講和条件の実務を担い、清正や黒田長政(くろだ・ながまさ)ら武断派には、帰国後の城普請と九州沿岸警備が割り当てられた。
それでも、講和は誰も完全には満足させなかった。明は冊封の体面を得たが、釜山周辺の処理に曖昧さを残した。朝鮮は戦を止めたが、日本の在番を屈辱と見た。日本では秀吉が屈辱を呑んだという噂が流れ、清正らは小西と三成を冷ややかに見た。
秀吉は、戦を終わらせた。だが、終わらせた戦の後始末は、秀頼の時代へ細く長く伸びていった。大坂城の詔書の朝、豊臣政権は二度目の破滅的出兵を避けた。その代わりに、名と実、講和と屈辱、交易と在番をめぐる不安定な均衡を抱え込むことになった。
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史実との差分
史実では1596年9月の詔書朗読で秀吉が激怒し、明との講和は破綻した。翌1597年には慶長の役(けいちょうのえき)が始まり、日本軍は朝鮮南部で再び消耗戦に入る。この if では秀吉が形式上『日本国王』の冊封を受け入れ、勘合貿易(かんごうぼうえき)再開、釜山(ふざん)周辺の限定在番、捕虜送還、撤兵手順を別書面で整えることで講和を成立させる。慶長の役は起こらず、豊臣政権の疲弊は軽くなるが、朝鮮側の不満と日本国内の武断派の不満は残る。
読者ノート
この分岐の焦点は、秀吉が講和を受け入れればすべて丸く収まるという話ではない。慶長の役(けいちょうのえき)は避けられるが、冊封を受けた屈辱、釜山(ふざん)周辺の在番処理、朝鮮側の反発、小西行長(こにし・ゆきなが)と加藤清正(かとう・きよまさ)の溝は残る。次の局面は、帰国した諸将をどう処遇し、秀頼後見体制の中で講和派と武断派の不満をどう抑えるかへ移る。