もし毛利輝元が秀吉を追撃していたら?

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この武将はどんな人?

毛利輝元は中国地方の覇者・毛利家の当主でした。当時は備中で秀吉と対陣しており、信長との戦いを続けるか和睦するかの岐路に立たされていました。叔父にあたる吉川元春(きっかわ・もとはる)と小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)の二人が、その判断を支えていました。

この場面で何が起きていた?

1582年6月4日、秀吉は急遽和睦を結び撤退を開始。直後の6月5日頃、毛利方も本能寺の変の真相を知ります。吉川元春(きっかわ・もとはる)は追撃を主張したと伝わりますが、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)の反対と、誓紙の重みで思いとどまったとされます。

史実ではこうだった

天正10年(1582年)6月、備中高松城の対陣は和睦で決着した。 清水宗治(しみず・むねはる)の自刃と、備中・美作・伯耆三国の割譲を条件に、毛利氏は秀吉との和議に応じた。誓紙が交わされ、秀吉軍は6月6日に高松を撤して東進を開始する。 だが、秀吉が去って数日後、毛利方も本能寺の変の真相を知った。使者が事実を伝えた時、毛利の本陣は凍りついた。信長は死んでいた。秀吉は知っていながら、それを隠して講和を急いだのだ。 吉川元春(きっかわ・もとはる)は追撃を主張した。「誓紙など何の意味がある。秀吉は信長公が死んだことを知りながら、それを伏せて我らを欺いた。今追えば、強行軍で疲れた秀吉軍を背後から潰せる」。 だが、弟・小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)は首を振った。「誓紙は神仏に対する誓いである。これを破れば毛利の信は地に堕ちる。それに、秀吉が死ねば誰が天下を継ぐ。光秀か、徳川か、柴田か。我らに利のある相手とは限らぬ」。 輝元はしばし黙し、最後は隆景の意見を採った。追撃は行われなかった。 秀吉は山陽道を駆け、6月13日に山崎で光秀を破った。本能寺の変からわずか11日。後に秀吉は『あの時、毛利が追撃していれば自分は終わっていた』と述懐したと伝わる。 もし元春の主張が通り、毛利が和睦の誓紙を破棄して追撃に出ていたら――。秀吉軍は強行軍の疲労の最中、後背を毛利の精鋭に襲われ、光秀との決戦どころではなかったかもしれない。

もしここが変わったら?

もし毛利輝元が和睦を破って秀吉を追撃していたら、秀吉の天下取りは中国路で潰えていた可能性があります。信長の後継問題は再び未確定となり、戦国時代はさらに長引いていたでしょう。

俯瞰視点

破られた誓紙――備前路で止まる大返し

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天正十年六月四日、備中高松城の水面に小舟が浮かんだ。城主・清水宗治(しみず・むねはる)はその上で腹を切り、毛利と羽柴の和睦は形を得た。和睦の条は、清水宗治の自刃に加え、境目の国を分け、備中と美作を羽柴方に、伯耆の一部を割いて領分を定めることにあった。起請文には、毛利輝元、吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)の名と血判が並んだ。神仏に誓って違背しない。そう記された紙である。 羽柴秀吉は、宗治の最期を見届けると、すぐに撤退の支度を命じた。京では織田信長が明智光秀に討たれている。だが、その事実を毛利に知られてはならない。秀吉は本能寺の報を伏せたまま和睦をまとめ、六月六日には備中を離れて東へ返した。 ところが、報せは完全には止められなかった。山陰の間道を通った使者が、安土と本能寺の異変を毛利方へ伝えた。信長は死んでいる。秀吉はそれを知りながら和睦を急いだ。吉川元春は怒った。誓紙よりも、戦機を逃さぬことを重んじた。 小早川隆景は強く反対した。起請文を破れば、毛利の信用は地に落ちる。神仏への誓いを焼いた家と、今後どの大名が安心して和睦するのか。だが、輝元は決断を迫られた。秀吉は背を向けている。強行軍の途中で討てば、毛利は一気に山陽道へ出られる。若い当主は、最後に元春の追撃論へ傾いた。 誓紙は火に投じられた。 六月六日、秀吉軍は備前路を急いでいた。姫路へ戻り、軍装を整え、山崎へ向かう。そのために荷は削られ、兵には干飯(ほしいい)と握り飯が配られた。足軽の足は泥に沈み、隊列は長く伸びていた。
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後方を黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)が固め、宇喜多勢が殿を引き受けていた。そこへ吉川勢が追いついた。山道を抜けた毛利の精鋭は、備前国境から羽柴軍の後背に食い込んだ。雨で火縄は湿り、鉄砲は思うように鳴らない。疲れ切った足軽は、槍を構えるだけで息を荒らした。 官兵衛は本陣を高みに移し、蜂須賀小六に後方を支えさせた。秀吉も馬を返し、乱れた隊列を立て直そうとした。だが、行軍のために軽くした軍は、追撃を受け止めるには薄かった。宇喜多勢は崩れ、羽柴本隊にも動揺が広がった。 夕刻、吉川勢の槍衾(やりぶすま)が本陣近くまで迫った。混戦の中で流れ矢が秀吉の脇腹を貫いた。秀吉は陣幕へ運び込まれた。命はすぐには絶えなかったが、意識は遠のいた。官兵衛はその場で山崎行きを捨て、秀吉を姫路へ戻す決断を下した。 羽柴勢は夜の雨の中を退いた。追撃を受けながらの撤退である。殿には蜂須賀と黒田の手勢が残り、負傷者の多くは街道沿いの寺へ預けられた。姫路へ入った軍は、信長の仇を討つ軍ではなく、主を守って逃げ帰った軍になっていた。 畿内では、明智光秀がこの空白を使った。京の治安を押さえ、勝竜寺(しょうりゅうじ)と淀を固め、朝廷への働きかけを続けた。柴田勝家は越前から動く時機をうかがい、徳川家康は伊賀を越えて三河へ戻った。丹羽長秀と織田信孝も、誰を信長の後継として推すべきかを測り直した。 毛利は戦術的には勝った。秀吉の大返しを止めたからである。だが、誓紙を破った事実は残った。毛利と結ぶことを、諸大名は以前のようには信じなくなる。秀吉の夢は備前路で砕けた。だが、毛利の勝利もまた、次の天下へ進むための信用を焼いた上に成り立っていた。
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史実との差分

史実では小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)の慎重論が通り、毛利は和睦の誓紙を守って秀吉の撤退を黙認した。この if では吉川元春(きっかわ・もとはる)の追撃論が採用され、毛利は起請文を破って撤退中の羽柴軍を後背から襲う。強行軍中の羽柴軍は備前路で崩れ、秀吉は重傷を負って姫路へ後退する。山崎の戦いは起こらず、信長後継をめぐる主導権争いは空白のまま長期化する。

読者ノート

この分岐の焦点は、毛利が追撃すれば単純に天下へ近づくという話ではない。追撃は秀吉を止める有効な軍事行動だが、起請文を破る代償は重い。次の局面は、秀吉不在で光秀・柴田・徳川・丹羽・信孝が動く一方、毛利が『誓紙を破った家』としてどこまで外交的に孤立するかへ移る。