もし羽柴秀吉(織田軍)が撤退せず、上月城の救援を決行して毛利軍と決戦を行っていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

山中鹿之助ら尼子再興軍は、織田信長の命で播磨最前線の上月城(こうづきじょう)を守っていましたが、毛利軍3万に包囲されてしまいました。

この場面で何が起きていた?

1578年、播磨では三木城の別所長治(べっしょ・ながはる)が織田に反旗を翻していました。背後の反乱を抱えた信長は、戦力を三木城攻めに集中させるため、秀吉に上月城(こうづきじょう)撤退を厳命しました。

史実ではこうだった

天正六年七月、播磨・上月城(こうづきじょう)。城には、尼子勝久(あまこ・かつひさ)と山中鹿之助に率いられた尼子再興軍が籠もっていた。 前年、織田の中国攻めの先鋒・羽柴秀吉が上月城を攻め取り、再興軍をこの最前線に配していた。だが天正六年、吉川元春(きっかわ・もとはる)・小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)率いる毛利の大軍三万が、城を幾重にも包囲する。 ときを同じくして、播磨では別所長治(べっしょ・ながはる)が三木城で織田に反旗を翻していた。背後の反乱を恐れた織田信長は、秀吉に上月城を見捨て、書写山へ退いて三木攻めに集中せよと厳命する。 秀吉は非情の命に従い撤退した。孤立無援となった上月城はやがて降伏。尼子勝久は自刃し、鹿之助は毛利本陣への護送の途上、備中・阿井の渡し(あいのわたし)で謀殺された。尼子再興の悲願は、ここに潰えた。

もしここが変わったら?

もし織田の救援軍が上月城(こうづきじょう)に到達し、毛利軍と戦端を開いていたら、尼子の運命はどう変わったでしょうか。

今回の視点俯瞰視点

見捨てられなかった上月――秀吉の救援、毛利三万を播磨から退ける

天正六年七月、播磨の最前線に位置する上月城(こうづきじょう)は、毛利の吉川元春(きっかわ・もとはる)・小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)率いる三万の大軍によって幾重にも包囲されていた。城内を守る尼子勝久(あまこ・かつひさ)・山中幸盛ら尼子再興軍は、連日の猛攻と食糧不足により極限状態にあった。織田信長から下された「上月城を見捨てて三木城攻めに集中せよ」との非情な厳命は、救援の道を完全に閉ざすものと思われた。羽柴秀吉も一度は救援を断念せざるを得ない立場にあった。だが秀吉はあきらめず、自らの参謀である黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)を安土城へ派遣し、信長への直談判を試みた。官兵衛は信長に対し、「上月を見捨てれば山陰・山陽の毛利が播磨に雪崩れ込み、結果として三木城攻めも破綻する。上月城の前面で毛利の戦力を挫くことこそ、中国攻略の早道」と直談判で説得した。信長は官兵衛の戦略的眼識を認め、別所長治(べっしょ・ながはる)の三木城を押さえる包囲を緩めぬことを条件に、限定的な増援を付して秀吉が上月城の救援に向かうことを最終的に許可したのである。 秀吉は直ちに軍勢一万余を率いて書写山を出陣、夜行軍をもって上月城の東方に位置する高地に布陣した。織田の軍太鼓が山々に響き渡り、上月城内の尼子軍は歓声を上げた。毛利の小早川隆景は、秀吉が信長の厳命に背いて救援に来ることはないという予測を裏切られ、陣形の再編を余儀なくされた。吉川軍が上月城の包囲を維持したまま、隆景の軍勢が秀吉の本隊を迎え撃つ形で、上月城前面の野原にて両軍は激突した。織田軍の組織的な鉄砲一斉射撃と、黒田官兵衛が考案した伏兵作戦により、毛利の先鋒隊は混乱に陥った。さらに、城内から幸盛率いる尼子の決死隊が打って出て毛利の包囲網の背後を突き、毛利軍は挟撃される形となった。この挟撃が毛利の戦列を崩壊させた。
戦闘は一日に及ぶ激戦となり、多くの犠牲者を出した毛利軍は、上月城の包囲を維持し続けることができず、備中国境へと後退せざるを得なくなった。秀吉軍は毛利を播磨から駆逐し、上月城の尼子勝久・山中幸盛を無事に救出したのである。この勝利により、尼子再興軍は壊滅を免れ、上月城は織田の中国攻略における強固な前線牙城として維持されることとなった。これによって毛利の東進は完全に食い止められた。 この播磨決戦の決定的な勝利により、別所長治の三木城に対する織田の包囲網はさらに強固なものとなり、毛利からの支援を絶たれた別所軍の士気は急激に低下した。尼子勝久は生存し、幸盛は上月城を本拠として、毛利をさらに西へ追い詰めるための次なる調略を播磨西部から美作にかけて展開し始めた。播磨の空は晴れ渡り、戦火の跡が残る城壁の上で、幸盛は再び尼子の「四つ目結」の旗を青空に向けて力強く翻らせていた。毛利打倒と出雲奪還への道は、この播磨の地での防衛成功により、決定的な一歩を踏み出したのである。尼子の再興という夢は、もはや遠い幻影ではなく、具体的な攻略ルートを伴った現実の軍事戦略として、山陰の山並みの向こうに確かに見え始めていた。

史実との差分

史実では秀吉が撤退命令に従い上月城(こうづきじょう)を見捨てたため尼子軍は全滅したが、この分岐では秀吉が信長を説得して救援を決行し、毛利軍を撃退した。これにより尼子勝久(あまこ・かつひさ)・鹿之助は生存し、上月城は織田の播磨防衛の要として機能し続け、中国攻略が有利に進むこととなった。

読者ノート

この物語は『もし織田軍が撤退せず、毛利軍と正面から激突していたら』という仮定に基づく創作です。黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)の説得工作や戦闘の詳細はフィクションです。

山中鹿之助の他の転換点を見る →