もし山中鹿之助が尼子再興を断念し、織田信長へ早期に仕官していたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

山中鹿之助は尼子家の家臣であり、主家への絶対的な忠誠心で知られていました。主家滅亡後は一族を率いて再興を目指していました。

この場面で何が起きていた?

1569年当時、尼子氏は毛利氏に敗れて滅亡しており、鹿之助は京都の東福寺で尼子勝久(あまこ・かつひさ)を擁立しようと画策していました。一方、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、天下への地歩を固めていました。

史実ではこうだった

永禄九年、出雲・月山富田城(がっさんとだじょう)が毛利元就に攻め落とされ、尼子氏は滅亡した。主家を失った山中鹿之助は、京の東福寺で仏門にあった尼子勝久(あまこ・かつひさ)を還俗させ、再興の旗を掲げる。 永禄十二年、毛利が九州の大友氏との戦いに主力を割いた隙を突き、鹿之助らは出雲へ上陸した。旧臣が続々と集まり、再興軍はたちまち数千に膨れ上がる。一時は出雲の大半を回復し、月山富田城をも包囲した。 しかし翌年、山陰へ取って返した毛利の精鋭の前に、布部山(ふべやま)の戦いで再興軍は大敗を喫する。以後、鹿之助は捕縛と脱出を繰り返しながら、因幡・但馬を転戦して織田信長の力を頼った。 尼子の旗にこだわり続けた鹿之助の戦いは、天正六年、播磨上月城(こうづきじょう)での最期まで続く。主家再興という悲願が叶うことは、ついになかった。

もしここが変わったら?

もし鹿之助が尼子再興の看板を降ろし、織田信長の直臣として中国攻略の先鋒を務めていたら、彼はどのような戦国を歩んだでしょうか。

今回の視点俯瞰視点

尼子の旗を伏せ、織田の刃となる――山中幸盛、中国攻略の先鋒へ

永禄十二年の初夏、京都の東福寺。境内を満たす青葉の隙間から、まばゆい陽光が苔むした石畳を照らし、蝉の羽音が早くも静かに響いていた。山中鹿之助は、本堂の軒下で腕を組み、じっと佇んでいた。目の前には、若くして仏門に入り、静かに経を唱える尼子勝久(あまこ・かつひさ)の姿があった。新宮党(しんぐうとう)の遺児であり、滅亡した尼子氏を再興するための唯一の神輿である。しかし、鹿之助の胸中に渦巻いていたのは、盲目的な忠義による起兵への情熱ではなく、冷徹な現実の計算であった。 出雲から付き従ってきた尼子の旧臣たちは、今すぐにでも勝久を還俗させ、毛利の隙を突いて出雲へ上陸しようと息巻いていた。だが、宿敵たる毛利の力は強大であり、九州の大友氏との戦いに主力を注いでいるとはいえ、その支配力は強固である。もしここで焦って微力な兵を挙げれば、一時的な戦果は得られても、すぐに毛利の精鋭に押し潰され、尼子の血脈は完全に絶えてしまう。鹿之助は深く息を吐き、静かに勝久の前で平伏した。「若君、今は起兵の時ではございませぬ。尼子の旗を掲げることは、毛利を徒に刺激し、我らの命脈を断つだけにございます」。勝久は驚いたように読経を止め、鹿之助の曇りのない目を見つめた。幸盛は尼子再興という看板を一度降ろすことを決断し、自らの武功をもって、当時急速に勢力を拡大していた織田信長へ仕官する道を選んだのである。 同年秋、幸盛は足利義昭を奉じて上洛していた織田信長に謁見した。信長はその強靭な体躯と、鋭い眼光を持つ出雲の勇士を一瞥し、不敵に笑った。「毛利を討ちたいか」との問いに、幸盛は「ただ、天下の静謐を願う織田公の力となり、自らの槍を振るうのみ」と答えた。信長はその実利的な姿勢を気に入り、直臣として取り立て、播磨や但馬の国衆への調略と、山陰方面の探索を命じた。尼子再興の執念を心の奥底に秘めたまま、幸盛は「織田の山中幸盛」として戦場を駆けることとなった。
天正に入り、織田家による中国攻略が本格化すると、幸盛はその先鋒として目覚ましい活躍を見せた。かつて尼子の拠り所であった因幡や但馬の地理を熟知する彼は、羽柴秀吉の軍勢を的確に案内し、毛利方の防衛線を次々と切り崩した。吉川元春(きっかわ・もとはる)も、尼子再興軍というゲリラではなく、織田という巨大な国家組織の先兵として組織的に動く幸盛の用兵に、大いに苦しめられることとなった。但馬の竹田城や因幡の鳥取城をめぐる攻防において、幸盛の率いる織田の部隊は、毛利の防衛線を圧迫し続けた。播磨の最前線に位置する上月城(こうづきじょう)は織田の強固な城塞として改修され、別所長治(べっしょ・ながはる)ら播磨国衆の不穏な動きに対しても、幸盛の率いる連絡部隊が播磨東部の街道をしっかりと押さえていたため、反乱の火種は早期に抑え込まれた。 幸盛が東福寺の畳の上で選ばなかった「尼子再興軍の結成」という道は、山陰の山々に空しい戦火を咲かせることなく消え去った。しかし、織田の黒き甲冑を身にまとった幸盛の槍は、毛利を山陰から駆逐するための最も鋭い刃として機能していた。かつて夢見た「主家再興」は、今や織田の覇権の進展と重なり合い、別の形で山陰の地に浸透しつつあった。天下統一の巨大な歯車の中に身を置きながら、出雲の麒麟は、遠い故郷の空をただ静かに見つめ、来るべき西進の日に備えていた。

史実との差分

史実では鹿之助は勝久を還俗させて尼子再興軍を結成し出雲へ上陸したが、この分岐では再興軍の結成を断念して織田信長へ直仕えした。これにより勝久は僧として生き延び、鹿之助も上月城(こうづきじょう)で落命することなく、織田の直臣として山陰攻略の先鋒を務め続けている。

読者ノート

この物語は『もし鹿之助が尼子再興という手段を捨てて、織田信長への仕官を選んでいたら』という仮定に基づく創作です。織田家臣としての彼の活躍は当時の戦況から描いたフィクションです。

山中鹿之助の他の転換点を見る →